「イラク王国」の版間の差分

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これに対し、[[カイロ (エジプト)|カイロ]]の[[イギリス陸軍]]中東司令部はヌーリー・アッ=サイードを保護し、イラクへの侵攻を開始した([[イギリス・イラク戦争]]、Anglo-Iraqi War)。[[4月18日]]には[[インド]]からの部隊を[[バスラ]]に上陸させ、パレスチナとヨルダンからも砂漠を横断する部隊を進撃させた。バグダード西方のハッバニーヤにはイギリス空軍のハッバニーヤ基地があり、イギリス空軍とインド軍が入ったが、[[4月30日]]に6,000人からなるイラク軍部隊が南の高地に陣取り、基地に対し陸空の戦力を動かさないよう要求した。英印軍はこれを拒否し、要求の期限となる[[5月2日]]早朝にイラク軍に対する爆撃を開始した。
 
イギリス軍の戦力は旧式訓練機など貧弱であり陸軍も人数は2,000人と劣勢だったが、増援の到着もありイラク軍を押し返しバグダッドへの進軍を始めた。ドイツ軍はイラク軍に対して、[[ヴィシー政権|ヴィシー・フランス]]領シリアから航空機を派遣するなどの支援を行ったが、イラクの航空部隊は戦力を失い、[[5月30日]]にはバグダードに入ったイギリス軍とイラク側は[[休戦]]し、アル=ガイラーニーはドイツへ亡命した。ほぼ1ヶ月にわたる戦争で再度イラクを占領したイギリス軍は引き続き、6月・7月にはシリアに対する作戦を、8月から9月にはソ連とともに、枢軸寄りだった[[イラン進駐 (1941年)|イランに対する進駐]]を行った。しかし、これでイラク国民の反英気運が無くなったわけでは無かった。同年12月、[[日本軍]]航空隊が[[マレー沖海戦]]でイギリス極東艦隊の主力艦「[[プリンス・オブ・ウェールズ (戦艦)|プリンス・オブ・ウェールズ]]」と「[[レパルス (巡洋戦艦)|レパルス]]」を撃沈したとの報が入るとバグダード市民が、日本支持・反英のデモを行い、撃沈された戦艦と同名のホテルの看板を取り外すなどした。イギリスのイラク占領は[[1947年]][[10月26日]]まで続いた。
 
=== イラク王国の滅亡 ===