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'''スリム・ヤマダエフ'''('''{{Lang|Rus|Сулим Ямадаев}}''';[[1973年]] - [[2009年]])は、[[ロシア連邦]][[チェチェン共和国]]の軍人、[[ロシア国内連邦軍]]第42親衛自動車化狙撃師団第291自動車化狙撃連隊[[ヴォストーク大隊]]長(2003年~2008年)予備役親衛中佐。[[チェチェン・イチケリロシ共和国連邦英雄]](独立派)国家親衛隊第2大隊長、准将。チェチェン最大の部族の1つであるベノイ部族に属し、[[グデルメス]]市を支配する'''ヤマダエフ氏族'''出身。5人兄弟の三男
 
元[[チェチェン・イチケリア共和国]](独立派)国家親衛隊第2大隊長、准将。チェチェン最大の部族の1つであるベノイ部族に属し、[[グデルメス]]市を支配する'''ヤマダエフ氏族'''出身。6人兄弟の三男。
==経歴==
チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国ノジャイ・ユルト地区ベノイ村出身。1992年、モスクワに移りビジネスに従事。
1990年代初めから、スリムは、積極的な独立支持者となった。[[第1次チェチェン戦争]]時、[[ジョハル・ドゥダエフ]]の呼びかけに応じて戦闘部隊に入り、グデルメス戦線司令官となった。1996年の終戦時、独立派中で最も若い准将となった。
 
19901994代初めから、スリムは、故郷に戻り積極的な独立支持者となった。[[第1次チェチェン戦争]]時、[[ジョハル・ドゥダエフ]]の呼びかけに応じて戦闘部隊に入り、グデルメス戦線司令官となった。1996年の終戦時、独立派中で最も若い准将となった。
1997~1998年、スリムは、国家親衛隊第2大隊長であった。この間、[[アスラン・マスハドフ]]の特別な信任を得たが、同時にアラブ人の影響力を懸念し始めた。1998年7月、グデルメスにおいて、イスラム原理主義者に対する軍事行動を指揮した。
1999年、スリムは、過激派を抑えきれず、アラブ人と手を切れないマスハドフと完全に決別し、ヤマダエフ氏族が支配するグデルメスは、独立派の支配下から離れた。同年8月、グデルメスを通過して、ダゲスタンに出撃しようとする過激派部隊を妨害した。[[第2次チェチェン戦争]]勃発後、ヤマダエフ氏族は、独立派への従属を拒否し、1999年11月、ロシア連邦に投降した。これに対して、独立派からは死刑を言い渡されている。
 
2002年5月、[[アフマド・カディロフ]]は、スリムを共和国軍事警備司令部副司令、後にチェチェン国家親衛隊司令官に任命した。2003年3月から、グデルメスに駐屯する特別任務支隊「ヴォストーク」を指揮した。2004年、フルンゼ名称軍事アカデミーで学び、2005年、中佐の階級を授与された。
 
スリムは、[[ウラジーミル・プーチン]]大統領支持を再三表明している。彼は、チェチェン土着の穏健的な[[イスラム教]]スーフィー教団を信仰しており、イスラム原理主義を外来のものと排撃し、特に[[シャミル・バサエフ]]を吊るし上げると公言していた。
 
ヤマダエフが指揮するヴォストーク大隊は、チェチェン独立派の掃討作戦で大きな成果を挙げ、ヤマダエフ自身にはロシア連邦英雄の称号が授与されたが、同時に一般住民の虐殺事件(2005年6月、ボロズディノフスカヤ)を引き起こした。
 
2008年頃から[[ラムザン・カディロフ]]と対立し始め、同年8月、ヤマダエフは誘拐・殺人の容疑で連邦手配された。同月、ヴォストーク大隊と共に[[南オセチア紛争 (2008年)|南オセチア紛争]]に従軍。戦後、連邦手配は解除されたが、予備役に編入された。同年9月24日、兄の[[ルスラン・ヤマダエフ|ルスラン]]が[[モスクワ]]で暗殺された。
 
2009年3月、[[アラブ首長国連邦]](UAE)のドバイで心臓に銃弾を受け殺害された。
 
==パーソナル==
妻帯、4児を有する。
 
===ヤマダエフ6兄弟===
*長男:[[ルスラン・ヤマダエフ]] - 下院議員、軍人。ロシア連邦英雄。2008年9月暗殺
*次男:[[ジャブライル・ヤマダエフ]] - 軍人。ロシア連邦英雄。2003年3月戦死
*三男:'''スリム・ヤマダエフ''' - 軍人。ロシア連邦英雄。2009年3月暗殺
*四男:アスラン・ヤマダエフ
*五男:[[イサ・ヤマダエフ]] - 政治家、実業家、軍人。
*六男:バドルジ・ヤマダエフ
 
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