「岩松成兼」の版間の差分

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ところが、[[寛正]]2年([[1461年]])に父と兄が家純に[[暗殺]]された為、成兼は再度成氏に寝返った。成兼が無事だったのは長禄3年([[1459年]])に既に成氏側についていたからだと言われている。しかし、領地を巡って一族の鳥山家や重臣と対立し、成氏の仲介まで出されている。[[上野国|上野]]で[[新田荘遺跡|新田荘]]を拠点に家純や[[上杉氏]]と戦うが、[[応仁]]2年([[1468年]])に[[綱取原合戦]]で上杉側が勝利する等、段々追い詰められていく。
 
この合戦の前後に成兼の消息は途絶える。[[文明 (日本)|文明]]元年([[1469年]])に家純によって新田から追放されたと言われている。また、[[後閑氏]]の祖になったとも言われているが定かではない。
 
{{DEFAULTSORT:いわまつ しけかね}}