「アキレ・ラウロ号事件」の版間の差分

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シージャック犯は乗客と乗員を人質に取りながら、船を[[シリア]]の[[タルトゥース]]へ向かわせ、当時[[イスラエル]]の収容所にいたパレスチナ解放戦線のメンバー50人の釈放を要求した。タルトゥース入港を拒否されると、シージャック犯らは[[車椅子]]に乗っていた[[ユダヤ系]][[アメリカ合衆国|アメリカ]]人男性乗客、レオン・クリングホーファーを銃撃し海へ突き落として殺害した。船はポートサイドへと回頭し、2日間の交渉の後、シージャック犯は自由通行許可証と引き替えに投降して船を放棄し、エジプトの民間航空機[[ボーイング737]]に搭乗して[[チュニジア]]へ向かった。
 
[[10月10日]]、当該機は[[アメリカ海軍]][[第6艦隊 (アメリカ軍)|第6艦隊]]所属の[[サラトガ (CV-60)|空母サラトガ]]から発艦した[[戦闘機]][[F-14 (戦闘機)|F-14]]によって迎撃され、[[シチリア島]]の[[北大西洋条約機構|NATO]]軍シゴネラ海軍航空基地への着陸を指示された。アメリカと[[イタリア]]当局の不和の中で、シージャック犯はイタリア側により逮捕された。機上の他の乗客たち(おそらくシージャック犯のリーダーである[[アブ・アッバス]]を含む)は引き続き目的地までのフライトを許された。当該機にコースから外れることを強要したことについて、エジプトはアメリカによる謝罪を要求したが、アメリカは異議を申し立てている。
 
有罪判決を受けたシージャック犯のその後は様々である。
* アフマド・マロウフ・アル・アサッディは仮釈放中の1991年、姿を消した。
* ヨゼフ・アル・モルチーは禁固30年を宣告された。[[1996年]][[2月16日]]に12日間の賜暇を得て[[ローマ]]のレビビア収容所を出所した際、空路[[スペイン]]へ渡ったため、現地で再逮捕、イタリアへ強制送還された。
* アブ・アッバスはイタリアの管轄区域から離れ、当事者不在のまま有罪判決を受けた。1996年、彼はシージャックと殺害について謝罪し、パレスチナ-イスラエル間の和平対話を主張したが、アメリカ政府とクリンゴーファーの家族は彼の謝罪を拒絶し、彼に法の下で処罰されるよう迫った。アッバース[[イラク]]の[[サッダーム・フセイン]]政権によって匿われていたが、[[2003年]]の[[イラク侵攻戦争]]より、フセイン政権は崩壊。米軍によってイラク[[バグダード]]で逮捕され、[[2004年]][[3月8日]]にアメリカによる勾留下、心臓発作を起こし死去した。
 
[[パレスチナ解放機構|PLO]](パレスチナ解放機構)はレオン・クリングホーファーの死に関与したとして提訴されたが、訴訟はPLOがクリングホーファーの娘たちに非公式に賠償金を渡すと取り下げられた。その金は[[名誉毀損防止同盟]]レオン・アンド・マリリン・クリングホーファー追悼基金の設立に用いられ、法的、政治的および経済的な手段でテロリズムと対決するのに用いられている。
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