「石本統吉」の版間の差分

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==人物==
東京出身。第一映画社で[[伊藤大輔 (映画監督)|伊藤大輔]]、[[溝口健二]]の劇映画の編集を担当。[[鈴木伝明]]、[[中野英治]]が出演した劇映画『名物三人男』『ある駅の出来事』『与太者サーカス』を監督。[[芸術映画社]]で長期ロケを刊行した記録映画『雪國』を監督し、[[文部大臣]]賞を受賞。[[日本映画社]][[ジャカルタ]]撮影所次長兼製作部長をへて、戦後、人員整理が始まっていた[[日本映画社]]でSF劇映画『[[空気のなくなる日|空気の無くなる日]]』を製作。[[日映科学映画製作所]]を設立した後、記録映画『結核の生態』、『せんたく』、『火と炎』ほかの製作に対して、第3回[[ブルーリボン賞]]受賞。
 
==経歴==
*[[1935年]]、第一映画社で、[[伊藤大輔]]の『お六櫛』、[[溝口健二]]『マリヤのお雪』の編集を担当。同年、『名物三人男』を監督。
*[[1936年]]、第一映画社で『ある駅の出来事』『与太者サーカス』を監督。
*[[1939年]]、[[芸術映画社]]で監督した記録映画「雪国」が公開される。
*[[1941年]]、中国南部の大河を題材にした記録映画『[[珠江]]』(芸術映画社=中華電影公司)の演出を他2名とともに担当した後、徴用される。
*[[1942年]][[3月1日]]、陸軍の[[ジャワ島]]上陸部隊に随行する宣伝班に日活多摩川のキャメラマン糸田頼一、撮影助手[[菊地周]]らと加わる。[[ジャカルタ]]のムルティフィルム・バタヴィアを接収。ニュース映画を製作した<ref name="java">[http://www.n-eigashinsha.jp/rekishi-jaka.html 空白の日本映画史 日本映画社ジャカルタ製作所 岡田秀則(東京国立近代美術館フィルムセンター研究員)]</ref>。同年[[10月1日]]に設立されたジャワ映画公社(理事長=[[大宅壮一]])の製作部長となる。ニュース映画は製作。この間、宣伝班に参加した[[阿部知二]]、[[武田麟太郎]]らと知り合う。
*[[1943年]][[4月1日]]、ジャワ映画公社の解体に伴って設立された日本映画社ジャカルタ撮影所次長、兼製作部長となる。撮影スタッフには、戦後石本が製作を担当した、『生きているパン』、『結核の生態』を撮影する[[小林米作]]がいた<ref name="java"/>。
*[[1948年]]、[[日本映画社]]で、奥山大六郎監督、太田仁吉原作、[[小林米作]]撮影の『生きているパン』(18分・35ミリ・白黒)を製作。
*[[1949年]]、日本映画社で、[[伊東寿恵男]]監督『空気の無くなる日』(51分・35ミリ・白黒)、太田仁吉監督・[[吉見泰]]脚本『あげはちょう』(21分・35ミリ・白黒)を製作。
*[[1950年]]、日本映画社で、太田仁吉・樺島清一監督・脚本『いねの一生』(21分・35ミリ・白黒)を製作。「イタリヤ映画のリアリズム」を『映画新潮』誌8月号に「わからない教育映画」を『映画教育』誌11月号に掲載。
*[[1951年]]、[[日映科学映画製作所]]設立。『いねの一生』が[[カンヌ映画祭]]に出品される。自ら製作した映画について書いた「世界一の大馬鹿映画『いねの一生』」を『日本評論』誌4月号に発表。
*[[1953年]]、日映科学映画製作所の『結核の生態』、『せんたく』、『火と炎』ほかの製作に対して、第3回ブルーリボン賞受賞。同年[[4月25日]]、教育映画製作者連盟が発足し、初代理事長となる。事務局長に阿部慎一。
*[[1955年]]、「よい教育映画はなぜ出来ないか」を『新しい学校』誌10月号に発表。
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