「奥村永福」の版間の差分

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[[1573年]]([[天正]]元年)に織田家が越前侵攻を開始すると帰参する。[[柴田勝家]]の与力である利家の家臣として[[朝倉氏]]攻めなど各地で活躍。後に[[加賀国]]に利家が入った際には要衝[[末森城 (能登国)|末森城]]を与えられる。主君利家が羽柴秀吉(後の[[豊臣秀吉]])に属した[[1584年]]([[天正]]12年)に[[越中国]][[佐々成政]]に1万5千の兵で末森城を攻められるが、二の丸まで落ちたものの、永福は寡兵で利家の援軍到着まで耐えぬき成政軍を撃退した。籠城戦の時、永福の妻である安(つね、加藤氏娘)の方は、薙刀をもって城内を巡回し、粥を振る舞って死傷者を介抱し城兵を元気づけたといわれる。
 
その後も利家の重臣として[[村井長頼]]と共に加賀前田家の基礎を作る。[[九州征伐]]・[[小田原合戦]]にも参加し、[[大坂の役]]では[[金沢城]]代を務めた。利家が死去すると隠居して出家する。8384歳で死去。法名は永福院殿快心宗活居士。
 
三男の栄頼は藩主・利常の信任厚く、政敵の'''横山長知'''を一時出奔に追い込んだが、大坂冬の陣で真田幸村相手に面目を失い、また横山の帰参に不満だったこともあって加賀藩を立ち退いた。その際、兄の栄明・易英や、栄頼と「'''大の知音'''」であった[[本多政重]]ら万石以上の大身がともに出奔しようとする事件が起きた。永福は彼らを説得して栄頼だけが出奔することとし、家中の混乱を最小限に食い止めた。