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'''少弐 資能'''('''しょうに  すけよし'''、[[建久]]9年([[1198年]]) - [[弘安]]4年([[1281年]]))は[[鎌倉幕府]]の有力[[御家人]]。[[武藤資頼]]の子。
 
[[武藤氏]]は当時、[[大宰府]]の責任者として太宰少弐の地位にあったため、この資能の時から少弐姓を名乗るようになったという。
 
資能は北九州に大きな勢力を持ち、幕府の[[鎮西探題]]として働いていた。[[1268年]]、モンゴル蒙古の使者の対応にも当たっている。[[元寇]]直前に出家して覚恵と号して家督を長男の[[少弐経資]]に譲ったが、老齢の身でありながら自身も対元の総司令官として参戦した。しかしこのとき、奮戦したものの[[博多]]の街を元軍によって焼かれたため、戦後に非難を浴びている。
 
[[文永の役]]にも老齢の身を押して出陣し、[[壱岐島]]の戦いで元軍相手に奮戦したが、このとき敵兵の攻撃を受けて重傷となり、まもなくその傷がもとで死去したという。
 
[[Category:武士|しようにすけよし]]
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