「レオポルト (アンハルト=ケーテン侯)」の版間の差分

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=== 幼少期 ===
レーオポルトの父は1704年に早くも亡くなり、レーオポルトの母は摂政としてようやく10歳になった少年レーオポルトの教育に対し、決定的影響力を持つようになった。父による遺言ではこの厳格な[[ルーテル教会|ルター派]]である侯爵夫人を後見人としていたが、同時に[[プロイセン王国|プロイセン王]][[フリードリヒ1世 (プロイセン王)|フリードリヒ1世]]をも上位後見人(Obervormundとしていた。それは争いごとを避けるためであった。上位後見人一同(Obervormundschaft)は、レーオポルトに[[改革派教会|改革派]]の教育を受けさせることを望んだが、レーオポルトはそれまで母親からルター派の教育を受けていた。したがって、上位後見人一同は将来の侯爵であるレーオポルトを、フリードリヒ1世が新たに創立したブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルにある騎士アカデミー(Ritterakademi)に入れることにし、レーオポルトはそこで1708年から1710年まで過ごした。1708年11月にはベルリナー・ホーフ(Berliner Hof)で大規模なオペラ祭「アレクサンダーとロクサーネンの結婚」(Alexanders und Roxanen Heyrath)がアウグスティン・ラインハルト・スティッカー(Augustin Reinhard Stricker)によって催された。レーオポルトは舞踏役としてそれに参加した。
 
=== グランドツアー(騎士旅行 / Kavalierstour) ===
1710年10月9日、レーオポルトはグランドツアーを開始した。この際ルター派のクリストフ・ヨープスト・フォン・ツァンティアー(Christoph Jobst von Zanthier)がお供として同行した。「適切な改革派の同行人が見つかることができなかったから」というのが理由であった。レーオポルトの母がそのような適任者を探すことにあまり力を入れなかっただろうというのは容易に見て取れる。レーオポルトは1710年から1711年にかけての冬、[[デン・ハーグ]]を旅行した。デン・ハーグではわずか4ヶ月の間に計12回オペラ鑑賞をし、レーオポルトの音楽に対する強い興味は明らかとなった。とりわけ[[ジャン=バティスト・リュリ]]の作品がレーオポルトの印象に残った<!--レーオポルト…^(er erwarb eine „''rare Opera des Herrn Lully die Musik gedruckt''“)。-->レーオポルトは自ら[[チェンバロ]]や[[ヴァイオリン]]を演奏した。
 
レーオポルトが1711年に帰るとフリードリヒ1世はレーオポルトを「''指揮権を持つ軍隊の大将に委任(commandirenden」(commandirenden Generalität committiren)''」committiren)しようとしたが、レーオポルトの母がそれを望まず、王はその提案を取り消した。そのかわりレーオポルトはイギリスを旅行し、ロンドンでオペラを鑑賞し、[[オクスフォード大学]]を訪れた。オクスフォード大学ではとりわけ図書館がレーオポルトの関心を引いた。
 
引き続きレーオポルトはオランダ、[[フランクフルト・アム・マイン]][[アウスブルク]]を通りイタリアへと旅行した。[[ヴェネツィア]]では一人でオペラ鑑賞のために130[[ターラー]]を使った。ローマでは特に1ヶ月間ヴァイオリンの名人、推測ではヨハン・ダーフィト・ハイニヒェンが雇われた。彼はケーテンから来た旅の一行を連れて、おそらくさらにもうしばらくの間イタリアをついてまわった。[[フィレンツェ]]を訪れた後に[[トリノ]]を訪れ、9日後には[[ウィーン]]を訪れた。そこでレーオポルトはFrancescoフランチェスコ・マンチーニ(Francesco ManciniMancini)の「''1212のカンタータ集(Buch」(Buch mit 12 Cantaten)''」Cantaten)を入手している。1713年4月17日レーオポルトはケーテンへ戻る。レーオポルトが使った金額は総額55,749ターラーになった。レーオポルトはこの高額の出費のために起こった論争をレーオポルトは、ケーテンに宮廷音楽を創設しその費用の半分を自己負担するということで決着をつけさせた。ベルリン宮廷楽団が1713年に解散されたため、レーオポルトはとびきりすぐれた音楽家を雇うことができた。この新しい宮廷楽団の初代指揮者として1714年オペラ作曲家Augustinアウグスティン・ラインハルト・シュトリッカー(Augustin Reinhard StrickerStricker)がケーテンで雇われた。レーオポルトは彼のことをベルリン時代から知っていた。
 
=== 統治時代 ===
1715年11月30日レーオポルトは「統治できる(vogtbar)(vogtbar)年齢になり、1716年5月14日宮殿と市庁舎で家臣の主君に対する託身の儀式を受けた(die(die Erb- und Landeshuldigungen entgegennehmen)entgegennehmen)。1704年から1715年にかけて摂政として統治しを務めたレーオポルトの母は結婚の際受け取った地(Witwensitz)(Witwensitz)であるニーエンブルク(Nienburg)(Nienburg)に引き下がることにした。しかし第一の問題がすでに若き侯爵を待ち構えていた。1702年からアンハルト=ケーテンで実された相続の際の長子権のためにレーオポルトは弟アウグスト・ルートヴィヒに補償を支払わなければならなかった(seinen(seinen jüngeren Bruder August Ludwig abfinden müssen)müssen)。アウグストはギュステン(Güsten)(Güsten)の向こう側に飛び地としてある、ゲオルク3(Georg(Georg III.)により1547年に立てられた宮殿、ヴァルムスドルフ(Warmsdorf)(Warmsdorf)の地とそこで得られる全ての収入(1715年 - 1716年にかけては9,893ターラー、その前年は13,094ターラー)を得、そのほかにも様々な譲歩(Zugeständnisse)(Zugeständnisse)を受け取った。
 
王座に付いてまもなく親政を開始した22歳のレーオポルトは、[[ヨーハン・ゼバスティアン・バッハ|ヨーハン・ゼバスティアン・バッハ]]に自らの宮廷楽団における[[楽長]]の地位を与えた。レーオポルトは姉妹が結婚式を挙げたときからこの作曲家を知っていたと考えてもよいだろう。バッハはこのとき[[ヴァイマル]]のエルンスト・アウグスト1世伯爵のお供でニーエンブルクに現れたのだった。れまでの宮廷楽長Strickerシュトリッカーは1717年初頭にケーテンを離れ1717年8月5日にバッハケーテンとの契約に署名をしていた。しかしヴァイマルで解職願いを果たすことができず、しばらくの間そこで拘禁され、したがって1718年初頭になってようやくStrickerシュトリッカーの後継人としてケーテンの職にくことができたのだった。
 
この若き音楽に関心をもった持ち、オーケストラでは時々みずからヴァイオリンを手にする若き侯爵のおかげで、ケーテン時代はヨーハン・ゼバスティアン・バッハにとって最も実り多き時代となった。この地で数多くの器楽曲、協奏曲、『[[ブランデンブルク協奏曲]]』の大部分、『[[平均律クラヴィーア曲集]]』1巻、そして多くの[[管弦楽組曲]]が誕生した。レーオポルトはバッハのすぐに亡くなった息子レーオポルト・アウグストの誕生の際に名付け親として立会い、1723年にバッハが立ち去った後もこの作曲家と親交を結んだ。
 
その後、レーオポルトとヴァルムスドルフにいる兄弟アウグスト・ルートヴィヒとの間で、ニーエンブルクの母とも同様に、繰り返し争いがあった。したがって1718年(または1719年)レーオポルトは武装した集団を両方の地に送り、そこでレーオポルトの紋章を取り付けさせた。しかしレーオポルトの母は息子の紋章をすぐに取り除かせた。このようにして受けた侮辱に対しレーオポルトは1721年更なる軍隊で応答し、軍隊はニーエンブルクへと進軍し、ケーテンの紋章を再び取り付け、そこの地方弁護士(Amtsadvokat)(Amtsadvokat)ヨーハン・ヤーコプ・ランゲマッハ(Johann(Johann Jacob Langemach)Langemach)を逮捕した。アンハルト=ベルンブルク(Anhalt(Anhalt-Bernburg)Bernburg)の向こうに位置し、ケーテンに属する飛び地ヴァルムスドルフにも軍隊は送られ、この兄弟の依頼で職務をおこなっていた5人の裁判官が逮捕された。1722年8月には兄弟は和解したが、母親は和解の当事者でなかった。
 
1721年12月17日レーオポルトはヴァイオリンの演奏を最後にし、その2日後34歳で亡くなった。聖ヤコブ教会でのの墓の埋葬の儀式の際バッハはこの機会に書いた葬送カンタータ''子らよ嘆け、全世界に嘆け(Klagt』(Klagt, Kinder, klagt es aller Welt)''Welt)を演奏した。この[[カンタータ]]は最近完成をみた[[マタイ受難曲]]の9つの楽章を用いている。
 
男系子孫不足のがなかったためレーオポルトのであるアウグスト・ルートヴィヒが彼の後継者となった。
 
== 業績 ==