「得居通幸」の版間の差分

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→‎経歴: 吉郷は吉継の子ではありません
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来島村上家の嫡男として生まれたが後に得居家の跡を継いだ。(得居氏は[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の伊予の名門[[土居氏]]と[[得能氏]]の子孫であると称して、得居姓を名乗っていた)
 
[[天正]]6年([[1578年]])から[[天正]]8年([[1580年]])頃に鹿島城主になったと考えられ、家臣達を悉く鹿島(現在の[[松山市]]沖)へ渡らせている。[[天正]]10年([[1582年]])4月に[[織田信長]]の配下として中国攻略にあたっていた[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]の調略を受け、本家来島家の当主であり弟の通総と共に旧主[[河野氏]]から離反して織田方についた。この離反の課程で来島家の家老であった[[村上吉継]]と子の、[[村上吉郷]]らは河野氏側に残って分裂し、裏切りを知った河野氏も毛利氏の協力を得て来島氏の攻撃を開始した。5月には能島村上氏の[[村上武吉]]・[[村上元吉]]親子を尖兵にして来島勢力に向けて攻撃を続けた。[[天正]]11年([[1583年]])3月には攻撃に耐えかねた来島通総が秀吉の元に脱出し来島方面への攻撃が一段落し、通幸の守る鹿島へ攻撃が指向されるようになり、通幸は毛利・河野連合軍が四国側の来島勢力を削いで行く中で島嶼にある鹿島城に籠城して守り抜き、8月以降は鹿島城を巡る戦闘が見られなくなった。[[天正]]12年([[1584年]])になると一時は秀吉の元に駆け込んでいた通総の再進出が10月には現実し、11月には忽那島周辺で海賊行為を始めた。秀吉の四国方面への圧力が激しくなる中で[[天正]]13年([[1586年]])2月には来島通総の帰国が毛利輝元や小早川隆景に容認されることとなった。8月に秀吉の[[四国攻め]]が始まるとかつては敵対したこともある小早川隆景・吉川元長などの軍勢を伊予方面で先導した。戦後の四国国分では主家の来島通総が一万四千石に封じられた他に通幸にも三千石が与えられた。その後も[[九州の役]]・[[小田原の役]]・[[文禄・慶長の役|文禄の役]]にいずれも豊臣氏配下の船手衆として参戦した。[[文禄]]3年([[1594年]])1月末から2月初めの頃に朝鮮水軍と戦って戦死した。後嗣がないため跡目は本家の来島通総に加えられた。
 
==没年説==