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== 歴史==
[[明朝]]の滅んだ[[1644年]]、[[張献忠]]が四川の中心[[成都]]で帝位につき、[[国号]]を[[大西]]、[[年号]]を[[大順 (張献忠)|大順]]と定めた。これ以後、[[清朝]]軍に攻撃を受けるまでの2年間、張献忠は四川を中心に中国の西南部を支配した。張献忠は嗜虐癖が異常に強く、残虐な殺戮を好んだため、さしもの富裕なこの地方もたちまち無人の荒野と化してしまった。ただし、張献忠の死後、10年以上に渡って抵抗運動が続けられており、また、清は徹底抗戦されたことを理由に揚州で大虐殺を行ったことがあるので、清の虐殺を張献忠のせいにしたという可能性がある。
 
中国の西南地区が地理的に[[華北]]や[[東北]]から大きく隔たっているにも関わらず、北方方言に属するのは、張献忠による大量虐殺によって古代以来の四川人が全滅に近い状態となり、明末清初以後に四川に入植した人々によって現代の四川人が構成されるようになったためである。[[1671年]]から[[1776年]]までの間に湖北・湖南・広東省などからの移民600万人以上が、人口が数万人ほどにまで減少した四川省に移民している([[湖広填四川]])。