「浪乃花教天」の版間の差分

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== 来歴 ==
農家の三男として生まれ、浪岡町立野沢小学校時代は相撲大会で常に優勝し、3年生の時には4年生の部で優勝するなど活躍した。浪岡中学校時代は相撲から離れて陸上部で活躍をし、将来は体育教員を志していた。しかし、中学校3年の時に家へ訪ねて来た二子山親方(元[[横綱]]・[[若乃花幹士 (初代)|初代若乃花]])から勧誘され、中学校卒業後に二子山部屋へ入門。[[1984年]]5月場所で初土俵を踏んだ。
 
体格は良くなかったが持ち前の負けん気と稽古が実り、[[1990年]]11月場所で新十両に昇進。その後、一時幕下に落ちたものの盛り返して、[[1992年]]9月場所で新入幕を果たした。4度目の入幕となった[[1994年]]11月場所では、10勝5敗と2桁勝利を記録し、生涯唯一の三賞となる敢闘賞を受賞した。なお1994年11月場所では、浪乃花が[[千秋楽]]の取組でもし負けていたら、史上初の三賞受賞者ゼロ無しになるところであった。
 
[[1995年]]3月場所では、最高位となる東小結に進んだ。だが、6勝9敗と3点負け越し、三役経験はこの場所のみで終わっている(浪之花は、三役以上との対戦経験が一度もないまま小結に昇進したが、これはとても珍しい事例であった)。突き押しを得意手とし取り口は志に溢れて気風が良く、特に相手をぐっと睨みつける厳しい仕切りには人気があった。この所作は横綱・[[千代の富士貢|千代の富士]](現・[[九重]]親方)を髣髴とさせ、相撲雑誌で「ミニウルフ」とニックネームが付けられた事がある。
 
しかし、[[1996年]]3月場所での[[魁皇博之|魁皇戦]]に於いて左ひじを痛め、この負傷が致命傷となって場所から6場所連続負け越し。これにより、1997年3月場所では幕下にまで陥落してしまった。そして、同場所初日の取組を最後に27歳の若さで引退。[[年寄名跡]]を取得できなかったため、引退後、直ちに[[日本相撲協会]]から去った。
 
その後料理店を経営し、現在は東京都[[港区 (東京都)|港区]][[西麻布]](最寄駅は[[乃木坂]])で、ちゃんこ鍋料理の店「天海地 [http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/taberu/016.html]」を経営している。またその傍ら一方で、[[J Sports ESPN]]『[[劇戦!大相撲]]』の解説者も務めている。
 
== 略歴 ==