「勝竜寺城」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
Machine gun (会話) による ID:28553840 の版を取り消し分割提案の告知なき分割のため一
19行目:
}}
 
'''勝竜寺城'''(しょうりゅうじじょう)は、現在の[[京都府]][[長岡京市]]勝竜寺に所在した、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]から[[江戸時代]]初期に存在していた[[城]]である。城名は付近の同名古刹[[勝竜寺]]に由来する。
 
== 概要 ==
25行目:
 
== 沿革 ==
[[ファイル:勝竜寺城(051125) 09.JPG|left|thumb|勝竜寺城公園の管理棟]]
=== 築城 ===
{{和暦|1339}}[[京都|京]]をうかがう[[南朝 (日本)|南朝]]方に対抗するため、[[北朝 (日本)|北朝]]方の[[細川頼春]]が築いた城と言われてきた。しかしこの点について『よみがえる日本の城』ではによると「歴史的根拠はなく、むしろ後に[[城主]]となる[[細川幽斎|細川藤孝]]の正当性を強調するための創作である可能が高い」と言われている。この城が歴史上めて現れるのは『東寺百合文章ひ』の[[康正]]3年([[1457年]])1月19日に「''
{{Cquote|来る二月八幡御番人夫五人、晦日勝竜寺へ早々越さるべく候|4=東寺百合文章ひ}}
とある部分、この時期に[[山城国]][[守護]]を務めていた[[畠山義就]]が郡代役所として築城したと推定されている。更に[[応仁の乱]]の『野田泰忠軍忠状』の{{和暦|1470}}に、
{{quotation|四月十四日、勝竜寺搦手北の口に於て合戦仕り、安富又次郎相共に馬場犴びに古市を焼落とす|野田泰忠軍忠状}}
 
更に[[応仁の乱]]の『野田泰忠軍忠状』の{{和暦|1470}}に、「''四月十四日、勝竜寺搦手北の口に於て合戦仕り、安富又次郎相共に馬場犴びに古市を焼落とす''」と記しているので、この頃には[[軍事]]施設して使用されていた。『日本城郭大系』によると「郡代の政庁から城郭に発展した典型的な例」としている。その後有力な[[史料]]には勝竜寺城が現れてこないが、『永禄九年記』の[[永禄]]9年([[1566年]])7月17日に、
{{quotation|小竜寺城、淀城扱いに依て取り退くと云々。小竜寺は岩成、淀は日向の内衆金子これを請け取ると云々|永禄九年記}}
 
とあるので、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期には[[淀古城]]と共に[[松永久秀]]、[[三好三人衆]]の属城となっていた。
=== 三好氏時代 ===
その後有力な[[史料]]には勝竜寺城が現れてこないが、『永禄九年記』の[[永禄]]9年([[1566年]])7月17日に「''小竜寺城、淀城扱いに依て取り退くと云々。小竜寺は岩成、淀は日向の内衆金子これを請け取ると云々''」とあり、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]末期には[[淀古城]]と共に[[松永久秀]]、[[三好三人衆]]の属城となっていたようである。
{{See also|東大寺大仏殿の戦い#開戦までの経緯}}
{{main|=== 勝竜寺城の戦い}} ===
{{battlebox|
|battle_name= 勝竜寺城の戦い
|image =
|caption =
|conflict= [[攻城戦]]
|date= [[永禄]]11年([[1568年]])9月26日-29日
|place= 勝竜寺城
|result= [[織田信長]]軍[[ファイル:Mon-Oda.png|20px]]の勝利
|combatant1= 織田信長軍[[ファイル:Mon-Oda.png|20px]]
|combatant2= [[三好三人衆]]軍[[ファイル:Japanese crest sanngai bisi ni itutukuginuki.png|20px]]
|commander1= 織田信長[[ファイル:Mon-Oda.png|20px]]<br/>[[柴田勝家]]<br/>[[蜂屋頼隆]][[ファイル:Ura manji.svg|20px]]<br/>[[森可成]][[ファイル:Maru-ni Mai-zuru.jpg|20px]]<br/>[[坂井政尚]]
|commander2= [[岩成友通]][[ファイル:Japanese crest sanngai bisi ni itutukuginuki.png|20px]]
|strength1= 50,000兵
|strength2= 不明
|casualties1 = 不明
|casualties2 = 50兵以上、勝竜寺城落城
|campaign =
|}}
[[ファイル:Shingen.jpg|thumb|left|upright|織田信長像]]
[[観音寺城の戦い]]で勝利した[[織田信長]]軍は、[[足利義昭]]を奉じて上洛する2日前の[[永禄]]11年([[1568年]])9月26日-26日、織田信長は[[柴田勝家]]、[[蜂屋頼隆]]、[[森可成]]、[[坂井政尚]]ら四人衆に先陣を命じ、[[桂川 (淀川水系)|桂川]]を渡河し[[三好三人衆]]の[[岩成友通]]が守る勝竜寺城を攻城させた。
 
その後、[[織田信長]]が岩成友通は[[足利義昭]]奉じ全面に押し立上洛応戦した[[永禄]]11年([[1568年]])9月26日に織田信長配下軍は精鋭の[[柴田勝家馬廻り]]、[[蜂屋頼隆]]、[[森可成]]、[[坂井政尚]]らに勝竜寺城は攻めら衆を乗り入る。この時、城守っていたのは三好三人衆の[[岩成友通]]であり有利にすすめ岩成は城を守り通したものの、柴田らは首級を50余りあげている。この首級は上洛を果たしていた織田信長の陣所となっていた[[東福寺]]へ届けられ、織田信長自身が首改めを行ったようである。
 
3日後の首改めをすました織田信長は、上洛を果たした翌9月29日となりには全軍に出陣を命じ、織田信長身が5万の大軍を率いて勝竜寺城の攻に向かった。勝竜寺城は信長畿内を治めていた三好三人衆軍であったが、5万兵の大軍を恐れた前にか降伏し開城し、三好氏支配の時代た。これ終わ観音寺城の戦いで[[近江国]]の守護であた[[六角義治]]軍が織田信長支配下上洛を防ぐ予想していたが、一日もたたずに[[観音寺城]]が落城したのが少からず影響していと考えられている
 
その後織田信長軍は[[芥川山城]]、[[越水城]]、[[高屋城]]の三好三人衆軍の城を攻城、降伏させていき、[[阿波国]]に帰国させ畿内から掃討することになる。{{-}}
{{main|勝竜寺城の戦い}}
{{和暦|1571}}、[[山城国]]西岡一帯を[[織田信長]]より与えられ城主となった[[細川幽斎|細川藤孝]](幽斎、[[細川元常]]の[[養子]])は、二重の堀を持つ堅固な城に改修したと思われている。同年10月14日織田信長より細川藤孝宛ての『印判状』には
 
{{quotation|勝竜寺要害の儀に付て、桂川より西の在々所々、門並に人夫参カ日の間申し付けられ、普請あるべき事簡要に候、仍って件の如し|織田信長の印判状}}
=== 安土桃山時代 ===
とあり、桂川より西にある家のすべては三日間の労働に出て、城の改修作事にあたるように織田信長自身が命じている。勝竜寺城と[[槇島城]]は織田信長の山城国の二大前線城として大きな役割を担わったと思われている。
[[ファイル:Syouryuuj9.jpg|thumb|城内にある[[細川忠興]]・[[細川ガラシャ|ガラシャ]]像]]
また勝竜寺城は[[細川忠興]]・[[細川ガラシャ]]ゆかりの城としても有名である。[[天正]]6年([[1578年]])8月、細川藤孝の息子細川忠興と[[明智光秀]]の娘お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で盛大な[[結婚式]]を挙げ、新婚時代を過ごしたと思われている。その細川藤孝も{{和暦|1581}}に[[丹後国]]に入封すると、代わって[[村井貞勝]]の寄騎[[家臣矢部家定]]善七郎[[矢部猪子高就]]兵助の両名が城を預か主となている。しかしたようだが猪子は翌{{和暦|1582}}[[本能寺の変]]で討死し、矢部は織田信孝に軍目付以後明智光秀の属城して派遣さなったと思われていたため難を逃る。同年の[[山崎の戦い|山崎の戦い]]で明智光秀が敗ると勝竜寺城に帰城しものが、[[豊臣秀吉]]軍追撃をうけ勝竜寺番不在だっから[[坂本城]]へ落ち延びる途中で落命する。勝利し豊臣秀吉は勝竜寺城は明智光秀翌日落ち入城している。一方明智光秀は勝竜寺城の援軍要請拠点と断った細川藤孝は剃髪[[山崎の戦い家督]]を細川忠興に譲たがて居城を[[豊臣秀吉田辺城 (丹後国)|羽柴秀吉田辺城]]に敗れ移し細川ガラシャは離縁し幽閉してしまった。その後勝竜寺城から本拠地であった[[坂本淀古城]]の修築石材が使用される途中、落命などして一旦荒廃する。
{{和暦|1571}}、[[山城国]]西岡一帯を[[織田信長]]より与えられた[[細川幽斎|細川藤孝]]は、この勝竜寺城に入り、二重の堀を持つ堅固な城に改修したと思われている。同年10月14日の織田信長より細川藤孝宛ての印判状には「''勝竜寺要害の儀に付て、桂川より西の在々所々、門並に人夫参カ日の間申し付けられ、普請あるべき事簡要に候、仍って件の如し''」とあり、桂川より西にある家のすべては三日間の労働に出て、城の改修作事にあたるように織田信長自身が命じている。勝竜寺城と[[槇島城]]は織田信長の山城国の前線基地として大きな役割を担わったと思われている。
 
[[江戸時代|江戸期]]に入った{{和暦|1633}}、[[永井直清]]に[[山城長岡藩]]へ封ぜられ、荒廃していた勝竜寺城の修築をおこなうが、[[徳川幕府]]より「堀はさわらない、勝竜寺城古城の北へ屋敷を取れ」という命令をうけた。この時不完全ながらも近世城郭としての勝竜寺城が完成した可能性が指摘されている。しかしそれも短命で{{和暦|1649}}、直清が[[摂津国]][[高槻藩]][[高槻城]]に転封されると同時に完全に廃城となった。
 
=== 築城現在 ===
また勝竜寺城は[[細川忠興]]・[[細川ガラシャ]]ゆかりの城としても有名である。[[天正]]6年([[1578年]])8月、細川藤孝の息子細川忠興と[[明智光秀]]の娘お玉(細川ガラシャ)が勝竜寺城で盛大な[[結婚式]]を挙げ、新婚時代を過ごしたと思われている。その細川藤孝も{{和暦|1581}}に[[丹後国]]に入封すると、代わって[[村井貞勝]]の寄騎[[矢部家定]]、[[猪子高就]]の両名が城を預かっている。しかし、猪子は翌{{和暦|1582}}の[[本能寺の変]]で討死し、矢部は織田信孝に軍目付として派遣されていたため難を逃れたものの、城番不在だった勝竜寺城は明智光秀に手に落ちている。明智光秀は勝竜寺城を拠点として[[山崎の戦い]]を戦ったが[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に敗れ、勝竜寺城から本拠地であった[[坂本城]]に逃れる途中、落命している。
以後、勝竜寺城は幕末まで省みられることはなかったが、1992年になって本丸および沼田丸趾が{{和暦|1992}}に勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓などが建造された。往時の遺構としては、当城北東に位置する神足神社境内に空堀や土塁が残る。{{-}}
 
明智光秀が放棄した勝竜寺城は秀吉が入城したが、特に重視されることもなく、[[淀古城]]の修築に石材が使用されるなどして荒廃した。{{-}}
 
=== 江戸時代以後 ===
[[ファイル:勝竜寺城(051125) 09.JPG|left|thumb|勝竜寺城公園の管理棟]]
[[江戸時代]]に入った{{和暦|1633}}、[[永井直清]]に[[山城長岡藩]]へ封ぜられ、荒廃していた勝竜寺城の修築をおこなうが、[[徳川幕府]]より「堀はさわらない、勝竜寺城古城の北へ屋敷を取れ」という命令をうけた。この時不完全ながらも近世城郭としての勝竜寺城が完成した可能性が指摘されている。しかしそれも短命で{{和暦|1649}}、直清が[[摂津国]][[高槻藩]]に転封されると同時に完全に廃城となった。
 
以後、勝竜寺城は幕末まで省みられることはなかったが、1992年になって本丸および沼田丸趾が勝竜寺城公園として整備され、模擬櫓などが建造された。往時の遺構としては、当城北東に位置する神足神社境内に空堀や土塁が残る。{{-}}
 
== 城郭 ==