「本多忠周」の版間の差分

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しかし、[[貞享]]4年([[1687年]])5月14日に将軍・[[徳川綱吉]]より、同じく寺社奉行であった[[旗本]]出身の[[相模国]][[深見藩]]主・[[坂本重治]]とともに勤務怠慢として寺社奉行を免職され、2年後の[[元禄]]2年([[1689年]])6月4日には、加増分の3,000石を没収されて[[旗本]]に戻った。当初には[[普請#役職としての普請 |小普請役]]だったが、元禄15年([[1702年]])に[[旗本寄合席|寄合]]となった。
 
[[正徳 (日本)|正徳]]2年([[1712年]])7月5日に死去。享年71。嫡男の[[本多忠職]]が早世していたため、養子の[[本多忠貞]]([[松平直矩]]の七男、初名・松平知隆)が跡を継いだ。
 
以後、忠周系本多平八郎家は、7,000石の旗本寄合として[[明治維新]]を迎えた。