「東インド共産党」の版間の差分

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ISDV内でスマウンら「原住民」党員の数が急激に増加したため、組織内ではオランダ人・欧亜混血児より「原住民」党員たちの発言力が強まった。
 
ISDVは、[[1920年]]5月の第7回大会で、党名を[[インドネシア語]]の「'''東インド共産主義同盟''' {{lang|id|Perserikatan Kommunist di India}}」に変更した。その大会の役員投票で、議長[[スマウン]](Semaun)、副議長[[ダルソノ]](Darsono)、書記ベルフスマ、会計ダウエス・デッケルとする新指導部が発足した。[[1920年]]12月には[[コミンテルン]]加盟を決議し、党名をさらに「'''東インド共産党''' Indische Communistische Partij」([[オランダ語]])に変更した<ref> 同じ[[アジア]]の国の中でも、[[中国共産党]]の結成が[[1921年]]であり、また[[日本共産党]]の結成が[[1922年]]であること、また[[東南アジア]]地域でみると[[南洋共産党]]([[マラヤ共産党]]の前身)の結成が[[1925年]]、[[インドシナ共産党]]、[[フィリピン共産党 (PKP)|フィリピン共産党]]、[[シャム共産党]]の結成が[[1930年]]であったことを考えると、この東インド共産党こそが(合法政党としては)アジア初の共産党であるとみなすことができる
</ref>。
 
[[1920年代]]初頭は東インドで[[労働運動]]、[[ストライキ]]が頻発し、東インド共産党も、工場労働者組合、鉄道電車職員組合などの労働運動を中心に活動を展開していった。ところが、労働運動内でのサレカット・イスラームと東インド共産党の勢力争いが激しくなると、[[1921年]]10月、サレカット・イスラームは組織内の共産党員を除籍する決定を下し、労働運動、さらには反植民地主義運動は大きく二派に分裂することになった。また、東インド政府は[[1923年]]5月にスマウンを逮捕、東インドから追放する<ref>東インドを追放となったスネーフリートは、のちに[[コミンテルン]]工作員として[[中華人民共和国|中国]]に渡り、[[国共合作]]に尽力した。</ref>など、共産党幹部を次々と追放した。
 
東インド共産党は、こうして有力な党幹部を失いながら、[[1924年]]6月、[[バタヴィア]]で開かれた第二回党大会で、党の名称を「[[インドネシア共産党]] {{lang|id|Partai Komunis Indonesia}}(略称{{lang|id|PKI}})に改めることになった(その後の経緯については[[インドネシア共産党]]を参照)。
 
== 備考脚注 ==
{{Reflist}}
* 同じ[[アジア]]の国の中でも、[[中国共産党]]の結成が[[1921年]]であり、また[[日本共産党]]の結成が[[1922年]]であること、また[[東南アジア]]地域でみると[[南洋共産党]]([[マラヤ共産党]]の前身)の結成が[[1925年]]、[[インドシナ共産党]]、[[フィリピン共産党 (PKP)|フィリピン共産党]]、[[シャム共産党]]の結成が[[1930年]]であったことを考えると、この東インド共産党こそが(合法政党としては)アジア初の共産党であるとみなすことができる。
* 東インドを追放となったスネーフリートは、のちに[[コミンテルン]]工作員として[[中華人民共和国|中国]]に渡り、[[国共合作]]に尽力した。
 
== 関連文献 ==