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[[寛永]]8年([[1631年]])、[[川勝重氏 (勘左衛門)|川勝重氏]]の三男として[[江戸]]に生まれた。[[慶安]]3年([[1650年]])9月3日、召されて[[徳川家綱]]に仕える[[小十人]]に列し、同日初めて将軍[[徳川家光]]に拝謁した。その後本城で仕え[[蔵米]]100俵を給わり、旗本家を興した。家紋は五七桐、釘抜。通し字は「'''隆'''」。
 
[[明暦]]3年([[1657年]])12月25日、先の本城延焼の時の具足持ち出しを賞せられ、黄金1枚を賜った。[[万治]]2年([[1659年]])6月9日、[[組頭]]に進み、同年12月23日に200俵を加えられた<ref>嫡男の隆成が大番の組頭に進み更に100俵を加えられて、合わせて蔵米400俵の禄高となった。</ref>。[[寛文]]5年([[1665年]])5月16日、職を辞し小普請となり、寛文8年([[1668年]])5月25日に[[大番]]に列した。[[延宝]]4年([[1676年]])10月25日材木奉行に転じた。[[元禄]]2年([[1689年]])12月29日に職を辞し、[[宝永]]3年([[1706年]])7月2日、76歳で没した。家督は嫡男の隆成が継いだ<ref>二男の隆明が隆尚流川勝家に、三男の広英が知氏系重氏流川勝家に、それぞれ養子に入った。</ref>
 
== 脚注 ==