「鳥海山大物忌神社」の版間の差分

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{{分割提案|鳥海修験|date=2009年12月}}
{{神社
|名称=鳥海山大物忌神社
ファイル:Warabioka-kuchinomiya 2nd Gate.JPG|'''蕨岡口之宮 二の鳥居'''<br>二の鳥居の下まで行くと、テンプレート画像にある拝殿を兼ねた巨大な本殿が見える。
</gallery><br style="clear: both"/>
 
== 鳥海修験 ==
鳥海山における修験を理解するためには、修験道の概要を知る必要があるので、これを交えながら解説する。( [[修験道]] も参照のこと。)
 
修験道は[[役小角]](えんのおづぬ、役行者とも通称される)によって起こされたと言われる。『鳥海山信仰史』<ref name="shinkoushi">松本良一 『鳥海山信仰史』 本の会 1984年7月 より。</ref>によれば、役小角は静寂清浄な場所、更に雄大な山には神が存在すると認め、そこを修行の地とした。
 
「[[#蕨岡、矢島の御堂建替の論争|蕨岡、矢島の御堂建替の論争]]」で述べたように修験の作法には'''順峯'''と'''逆峯'''があるが、役小角は[[熊野三山|熊野山]]から[[大峯山]]に入って[[吉野山]]へ出る修行を行い、これを'''順峯'''と言った。これとは逆に、吉野山から大峯山に入って熊野山へ出る修行を'''逆峯'''と言った。『鳥海山信仰史』<ref name="shinkoushi" />では修験2派を整理すると、以下のようになると述べている。
*'''本山派''' : [[天台宗|天台宗系]] (本山は[[聖護院]])、熊野派、順峯
*'''当山派''' : [[真言宗|真言宗系]] (本山は[[三宝院|醍醐三宝院]])、吉野派、逆峯
 
「[[#夷征と大物忌神|夷征と大物忌神]]」で述べたように、古代において鳥海山は神の山とされていたが、神仏習合思想がもたらされると、[[薬師如来]]が日本に現れて鳥海山に鎮座する大物忌神となり民衆を救済する、そういう考え方によって鳥海山大権現が現れたとされ、いつしかこの山は神の御座す修行の場となり、矢島・小滝・吹浦・蕨岡などの主要登山口に[[山伏|修験者]]が集うようになった。『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』<ref name="tsuuzoku">山形県 『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』 山形県 1979年3月 より。</ref>では、蕨岡が鳥海修験の一拠点となった時期は吹浦に[[神宮寺]]が置かれた頃と推測し、『鳥海山史』<ref name="sanshi">姉崎岩蔵 『鳥海山史』 ㈱国書刊行会 1983年12月 より。</ref>では、吹浦・蕨岡よりも矢島方面の修験道が相当古い由緒を持っていると推測しているが、峰々の[[曼荼羅]]化や入峰方式がどの様に確立されて行ったのか、各登山口にいつから修験者が住み着いたか等については、史料が欠けており正確には分かっていない。各登山口の修験者は、連綿とした事由からお互いに反目・対立するようになって行った。
 
『鳥海山信仰史』<ref name="shinkoushi" />では、各登山口について『飽海郡誌』が述べる、吹浦は大物忌神を祀って重きを社頭に置き、蕨岡は鳥海山大権現の学頭別当として直接に山上に奉仕して全山の支配権を享有していると言う記事は真実であると紹介し、棟札などの資料から見ると、鳥海山登拝修行道者を先達するところの鳥海山開発経営は矢島、小滝、蕨岡の3つの登山口の修験によって行われ、吹浦の修験は伝統により神領に頼った専ら社前(両所宮、神宮寺)の加持祈祷のみに収入を求めたと見られる、と述べている。
 
『鳥海山史』<ref name="sanshi" />によれば、修験は天台宗系と真言宗系に分かれて明らかな対立をきたし、両者の確執が絶えなかったことから、[[江戸幕府]]は[[慶長]]18年([[1613年]])に修験道法度を定め、これを統制しようとしたが成功しなかったので、本山派と当山派のどちらかに属さねばならないこととして支配しようとしたのだと言う。さらに『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』<ref name="sanzan">戸川安章 『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』 ㈲岩田書院 2005年2月 より。</ref>によれば、幕府は慶長19年([[1614年]])に天台宗を宗教上の第1位とする宗教政策を敷いた。
 
修験道法度の制定に対応し、独立命脈を保つため一山全てを天台宗とした[[羽黒権現|羽黒山]]に対し、鳥海山の各登山口は本山派と当山派に分かれたままであったが、その理由を『鳥海山史』<ref name="sanshi" />では、各登山口は系統を異にして発達した為だと述べている。さらに同書では、その状況を示すものとして、[[江戸時代]]に修験者同士の争いが[[矢島藩]]と[[庄内藩]]を巻き込んだ[[#蕨岡、矢島の嶺境の論争|嶺境論争]]に発展したことを例に挙げている。すなわち、嶺境論争は単なる山争いだけの問題ではなく、各々歴史的立場を主張していることから考えても、背景にはその系統や成立を異にしている点があり、それが争いを激化させたのであろうと考察している。
 
[[明治]]元年([[1868年]])新政府は[[神仏分離令]]を発布、明治5年([[1872年]])には修験禁止令が出され、修験道は禁止された。これにより、鳥海山に修験者の姿を見ることは無くなってしまった。『出羽三山と修験道 戸川安章著作集Ⅰ』<ref name="sanzan" />では、鳥海修験が崩壊してから既に1世紀以上が経ち、生き残りの修験者も姿を消し資料も散逸した今、鳥海修験を調査研究することは、不可能では無いにせよ至難の技であると現状を語っている。
 
===鳥海修験の拠点===
*吹浦口:鳥海山大物忌神社 (別当神宮寺)
*蕨岡口:鳥海山大物忌神社 (別当龍頭寺)
*小滝口:金峰神社 (別当龍山寺)
*滝沢口:森子大物忌神社
*矢島口:木境大物忌神社 (別当福王寺)
*院内口
 
== 祭事 ==
*黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 第4巻 [[日本三代実録]]』 ㈱吉川弘文館 1966年4月
*黒板勝美 國史大系編修会編 『國史大系 [[続日本後紀]]』 ㈱吉川弘文館 1974年5月 (普及版)
*山形県 『山形県史 通史編第1巻 原始・古代・中世編』 山形県 1979年3月
*安斎 徹・橋本賢助・阿部正巳 『山形郷土研究叢書第7巻 名勝鳥海山』 [[国書刊行会|㈱国書刊行会]] 1982年11月 (山形県郷土研究会 昭和6年刊の複製)
*姉崎岩蔵 『鳥海山史』 ㈱国書刊行会 1983年12月
*[[谷川健一]] 編 『日本の神々 -神社と聖地- 12 東北・北海道』 [[白水社|㈱白水社]] 1984年6月
*松本良一 『鳥海山信仰史』 本の会 1984年7月
*中世諸国一宮制研究会編 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 ㈲岩田書院 2000年2月
*山形県神社庁五十周年記念事業実行委員会出版部 編 『山形縣神社誌』 山形県神社庁 2000年4月
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