「宇治採茶使」の版間の差分

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4月下旬から5月上旬に行われた。責任者たる[[徒歩頭]](かちがしら)が輪番でその任を務め、[[茶道頭]]や[[茶道衆]](茶坊主)のほか茶壷の警備の役人など、[[徳川吉宗]]の[[倹約令]]が出るまで膨れ上がり、多い時には1000人を超える大行列となった。道中の総責任者は、宇治の代官の上林家が代々務めた。
 
100以上の将軍家伝来の茶壷に最高級の[[碾茶]]を詰めて、往路は[[東海道]]を復路は[[中山道]]・[[甲州街道]]を通った。甲州街道を通った行列は[[甲斐国]]谷村(現・[[都留市]])の[[勝山城 (甲斐国都留郡)|勝山城]]の茶壷蔵に納められ、[[富士山]]の冷気にあてて熟成してから、江戸に運んだ。
 
この御茶壷道中は、将軍が飲み徳川家祖廟に献ずるものであるから自ずからたいへん権威があり、[[摂関家]]や[[門跡]]並で、[[御三家]]の行列であっても、駕籠から降りて、馬上の家臣はおりて、道を譲らねばならなかった。