「安井道頓」の版間の差分

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== 道頓堀 ==
[[1582年]]ごろ、[[豊臣秀吉]]から[[大坂城]]の外壕を掘鑿した功労および[[猫間川]][[河岸]]整備に対する賞として城南の地を拝領した。[[1612年]]、城南の開発には河川の堀鑿が必要と考えた道頓は豊臣家の許可を受け、私財を投じて城南地域中心部の水路(後の道頓堀)の堀鑿に着手した。堀鑿中の[[1615年]]、[[大坂の役|大坂夏の陣]]に巻き込まれ、豊臣秀吉の遺児、[[豊臣秀頼]]に味方して入城、大坂城内で討死した。水路の堀鑿は、道頓の死後、[[松平忠明]]の許可を受けて道頓の従兄弟の[[安井道卜]]や[[平野区|平野郷]]の[[坂上氏]]の一族の[[平野藤次]](安藤藤次)らが跡を継ぎ、同年11月に完成させた。
 
== 成安氏 ==
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[[郷土史家]]のなかには、安井氏は本願寺の攻撃を受けた際に多くの一族を失い、定次一人が生き残ったものと思われることから係累がなく、定次に実子ができなかったために、河内国の[[久宝寺]]の隣の平野郷の有力者であった成安氏から養子を迎えたとする説を唱える者もおり、また、定次と道頓の関係を甥としている史料もあることから、定次の兄弟が成安氏に養子に入っていたか、姉妹が嫁いでいたなどいろいろな可能性を指摘する郷土史家もいる。しかしながら、道頓の出自については明らかにされていない。
 
 
== 道頓の登場する作品 ==
*『けろりの道頓』(「おれは権現」収録・短編小説)[[司馬遼太郎]]著
** 「[[けろりの道頓 秀吉と女を争った男]]」というタイトルで[[1999年]]に[[関西テレビ放送]]でドラマ化
 
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[[Category:安土桃山時代の人物]]
[[Category:摂津国の人物]]
[[Category:河内国の人物]]
[[Category:1533年生]]
[[Category:1615年没]]