「今出川晴季」の版間の差分

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左大臣[[今出川公彦|菊亭公彦]]の子として、天文8年(1539年)に誕生する。初名実維。天文14年([[1545年]])元服し、晴季と改名する。天文17年([[1548年]])[[従三位]]に叙せられ、[[公卿]]に列する。[[天正]]7年([[1579年]])[[内大臣]]、天正13年([[1585年]])に[[従一位]][[右大臣]]にまで昇る。
 
晴季は[[豊臣秀吉]]と親密な間柄で、[[織田信長]]亡き後、秀吉が天下人として、[[征夷大将軍]]の位を得ようとし、[[足利義昭]]の猶子となろうと工作したものの<ref>秀吉が足利義昭の猶子になろうとしたという説を否定する見方もある</ref>、義昭の拒否に遭い、将軍職を諦めていた所に[[関白]]任官を持ちかけ、[[朝廷]]における斡旋、調停役を務めた。これにより晴季は朝廷内で重きをなしたが、秀吉の甥で[[養子]]の関白[[豊臣秀次]]に娘(一ノ台)を嫁がせていたため、[[文禄]]4年([[1595年]])8月に秀次が謀反の疑いを懸けられ[[高野山]]で自害を強いられ、秀次の一族妻妾が殺されると、これに連座し、[[越後国|越後]]に流罪となり失脚した。一ノ台は未亡人で女児の連れ子がいたが、秀次は親子とも伽を命じた。これに対し晴季が秀吉に直訴したことが秀次断罪のきっかけとなったとされる<ref>[[言継卿記]]参照</ref>
 
翌[[慶長]]元年([[1596年]])赦されて帰京する。秀吉没後、慶長3年([[1598年]])12月、[[右大臣]]に還補された。慶長8年([[1603年]])正月右大臣を辞任。元和3年(1617年)3月28日薨去。享年79。法名景光院月叟常空。墓は[[京都]][[上京区]]上善寺にある。
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{{菊亭家}}
 
{{DEFAULTSORT:きくてい はるすえ}}
[[Category:室町・安土桃山時代の公家]]
[[Category:1539年生]]