「細川真之」の版間の差分

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== 生涯 ==
父の細川持隆が[[三好義賢]]によって殺害されると、その傀儡として擁立された。この時に母は義賢の妻となっている。義賢の死後もその子・[[三好長治]](異父弟にあたる)に傀儡として利用されたため、真之は大いに不満を持ち、天正6年に同じく長治に対して不満を持つ[[一宮成助]]([[小笠原成助]])らと手を結び、土佐の[[長宗我部氏]]に救援を求めて長治を討った。
 
しかし、これを良しとしない[[三好越後守]]、[[矢野国村]]、[[河村左馬亮]]らが[[三好氏]]の一門で[[讃岐国|讃岐]]の[[十河氏]]を継いでいた[[十河存保]](やはり真之の異父弟にあたる)を[[勝瑞城]]に迎え、早くも天正7年には細川方の有力国人だった[[伊沢頼俊]]が滅ぼされるなど真之にとって戦況は不利であった。やがて天正10年10月、十河存保は江村次郎大夫 本木新左衛門 露口兵庫 江邑兵衛進ら数百名の軍勢を遣わして[[茅ヶ岡城]]を攻めさせた。この結果、敗れた真之は八幡原にて自害を余儀なくされた。父は違うとはいえ、兄弟での壮絶な争いである。阿波の混乱を見た[[長宗我部元親]]は、存保の後ろ盾となっていた[[織田信長]]が[[本能寺の変]]で斃れたこともあり、阿波征服を決意する。これが[[中富川の戦い]]である。