「公傷制度」の版間の差分
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また、当初は[[大関]]だけは公傷制度の適用対象外であった。しかし、徐々に適用範囲が広がり、[[1983年|昭和58年]]からは大関も公傷制度の適用対象となった(適用第1号は[[1983年|昭和58年]]9月場所で負傷した[[朝潮太郎 (4代)|朝潮]](現[[高砂 (相撲)|高砂]])であった)。さらに[[平成]]に入ると「全治2ヶ月以上の診断書が提出されたら公傷」と言われるまでになり(「やたらと全治2ヶ月の診断書が出て来る」ともいわれた)、場所中の休場力士の増加につながったため、[[2003年|平成15年]]11月場所を最後に廃止された。幕内で初適用された力士は[[1973年|昭和48年]]5月場所の[[丸山孝彦|丸山]]、最後に適用されたのは[[琴ノ若晴將|琴ノ若]](現[[佐渡ヶ嶽]])。制度不適用第1号は当時十両の[[若天狼啓介|若天狼]]である。
廃止前に、制度を維持したまま運用の改善でしのごうとしたこともあった。しかし、大関[[武双山正士|武双山]](現[[藤島]])が
なお、公傷制度の廃止の際、救済措置として幕内の定員が40人から42人に、十両の定員が26人から28人に、それぞれ増員された。
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