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'''マヌエル・パスクアル'''('''Manuel Pasqual''', [[1982年]][[3月13日]] - )は[[イタリア]]出身の[[サッカー|サッカー選手]]。ポジションは[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]。[[フィオレンティーナ]]所属。元[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]。
 
==人物==
セリエC1でプレーしていた21歳の頃まではまったくの無名の選手であったが、23歳で[[セリエA (サッカー)|セリエA]]のフィオレンティーナのスポーツディレクター[[パンタレオ・コルヴィーノ]]にスカウトされ同クラブに移籍すると、瞬く間にレギュラーポジションを掴み、セリエAデビューから僅か1年で[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]に招集されたシンデレラボーイである。正確で速い[[クロス]]を蹴ることができる左[[サイドバック]]をポジションとする選手であり、カーブのかかった[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]も持ち味である。[[アシスト]]能力が高く、スピードや運動量といったフィジカル面も優れている。セリエAデビュー当初はその高い攻撃能力に対し、守備能力には改善の余地があったが、後に豊富な運動量を活かした献身的な守備でチームの最終ラインを支えている。
 
== プレースタイル ==
正確で速い[[クロス]]を蹴ることができる左[[サイドバック]]。カーブのかかった[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]も持ち味。[[アシスト]]能力が高く、スピードや運動量といったフィジカル面も優れている。セリエAデビュー当初はその高い攻撃能力に対し、守備能力には改善の余地があったが、現在は豊富な運動量を活かした献身的な守備でチームの最終ラインを支えている。
 
== 来歴 ==
===下部組織時代===
:*1994年、12歳のときから地元クラブのリヴェンティーナ・ゴルグヘンゼにてサッカーを学ぶ。14歳で地元を離れイタリア南部の[[レッジーナ]]に移籍。1996-1999シーズンの2シーズンを同クラブに[[イタリアのサッカークラブの下部組織|プリマヴェーラ]]に上がる直前まで所属した。
;1994-1996シーズン
:*12歳のときに地元クラブのリヴェンティーナ・ゴルグヘンゼにてサッカーを学ぶ。
 
;1996-1999シーズン
:*14歳で地元を離れイタリア南部の[[レッジーナ]]に移籍。[[イタリアのサッカークラブの下部組織|プリマヴェーラ]]に上がる直前まで所属した。
 
===アマチュア選手時代===
;1999-2000シーズン
:*実質アマチュアリーグである[[セリエD (サッカー)|セリエD]]の[[デルソナFBC]]でキャリアをスタートさせる。17歳ながら15試合に出場する。
 
;2000-2001シーズン
:*同カテゴリの[[ACポルデノン]]に移籍。レギュラーとして30試合に出場し、初得点も上げる。
===プロ選手時代===
;2001-2005シーズン
:*2001年7月に、当時[[セリエC1 (サッカー)|セリエC1]]に所属していた[[トレヴィーゾFC]]に移籍し、公式戦に2試合出場しプロデビューを果たす。
 
:*2002年1月に、同カテゴリの[[ACアレッツォ]]に移籍。2005年まで在籍し、公式戦に60試合出場し、1得点している。
 
:*2004年に所属していたアレッツォが[[セリエB (サッカー)|セリエB]]に昇格すると、当時22歳にしてチームのキャプテンを務め、クオリティの高いプレーを披露していたパスクアルは、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]のスカウト陣の目の留まるところとなる。[[ユヴェントス]]等、多くのクラブが獲得に動いた言われている。
 
;2005-2006シーズン
:*2005年7月、共同保有権を獲得した[[フィオレンティーナ]]に移籍。当初、同時期にクラブが[[ACミラン]]から獲得した[[ジュゼッペ・パンカロ]]の控えと見られていたが、いざシーズンが始まると、僅か数試合でレギュラーポジションを獲得してみせた。セリエAデビュー1年目は、このシーズンに31得点を挙げセリエA得点王となった[[ルカ・トーニ]]に、左サイドから正確なクロスを供給し、多くのアシストを記録した。当初、[[チェーザレ・プランデッリ]]監督が課題として挙げていた守備面での貢献は、シーズンが進むにつれて改善していく。
 
===アマチュア選手時代からプロへ===
:*その後、チームの躍進と共にパスクアルの名はイタリア全国に広がり、ついに[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]に招集される。無名時代からセリエAデビュー経て、僅か数ヶ月でイタリア代表にまで上り詰めた実力は本物だと確信したフィオレンティーナの幹部は、シーズン終了後に保有権の全てを買い取る事を決断する。このシーズンは35試合に出場し、1得点を挙げている。
1999-2000シーズンに実質アマチュアリーグである[[セリエD (サッカー)|セリエD]]の[[デルソナFBC]]でキャリアをスタートさせる。17歳ながら15試合に出場する。翌年、2000-2001シーズンに同カテゴリの[[ACポルデノン]]に移籍。レギュラーとして30試合に出場し、初得点も上げる。2001年7月に、当時[[セリエC1 (サッカー)|セリエC1]]に所属していた[[トレヴィーゾFC]]に移籍し、公式戦に2試合出場しプロデビューを果たす。2002年1月に、同カテゴリの[[ACアレッツォ]]に移籍。2005年まで在籍し、公式戦に60試合出場し、1得点している。2004年に所属していたアレッツォが[[セリエB (サッカー)|セリエB]]に昇格すると、当時22歳にしてチームのキャプテンを務め、クオリティの高いプレーを披露していたパスクアルは、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]のスカウト陣の目の留まるところとなる。[[ユヴェントス]]等、多くのクラブが獲得に動いた言われている。
 
===フィオレンティーナ===
;2006-2007シーズン
:*2005年7月、共同保有権を獲得した[[フィオレンティーナ]]に移籍。当初、同時期にクラブが[[ACミラン]]から獲得した[[ジュゼッペ・パンカロ]]の控えと見られていたが、いざシーズンが始まると、僅か数試合でレギュラーポジションを獲得してみせた。セリエAデビュー1年目は、このシーズンに31得点を挙げセリエA得点王となった[[ルカ・トーニ]]に、左サイドから正確なクロスを供給し、多くのアシストを記録した。当初、[[チェーザレ・プランデッリ]]監督が課題として挙げていた守備面での貢献は、シーズンが進むにつれて改善していく。その後、チームの躍進と共にパスクアルの名はイタリア全国に広がり、ついに[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]に招集される。無名時代からセリエAデビュー経て、僅か数ヶ月でイタリア代表にまで上り詰めた実力は本物だと確信したフィオレンティーナの幹部は、シーズン終了後に保有権の全てを買い取る事を決断する。このシーズンは35試合に出場し、1得点を挙げている
:*2006年7月、[[カルチョ・スキャンダル]]に揺れたクラブの渦中にいたパスクァルは、セリエBの降格の可能性もあったクラブに対し逸早く残留を希望し、イタリア代表にまで育ててくれたクラブに恩義を示した。クラブ側はそれに応えるように、当時多くのクラブが注目していたパスクアルの完全保有権を、入札によりアレッツォから獲得した。
 
:*2006年7月、[[カルチョ・スキャンダル]]に揺れたクラブの渦中にいたパスクァルは、セリエBの降格の可能性もあったクラブに対し逸早く残留を希望し、イタリア代表にまで育ててくれたクラブに恩義を示した。クラブ側はそれに応えるように、当時多くのクラブが注目していたパスクアルの完全保有権を、入札によりアレッツォから獲得した。このシーズンは、フィオレンティーナの左サイドバックのレギュラーとして30試合に出場。DFラインの一員として、チームのシーズン最小失点に貢献している。
 
:*2007年夏には同ポジションの[[フェデリコ・バルザレッティ]]がユヴェントスから移籍してきたが、監督の[[チェーザレ・プランデッリ]]からの信頼は絶大であり、シーズン前半はレギュラーポジションを守っていた。しかしチームはプレシーズンに移籍していった[[ルカ・トーニ]]の穴を埋めるべく様々なシステムを試行、徐々にクロス主体の戦術からショートパス主体の戦術になり、2007-2008シーズン後半はドリブルの技術面で分があった[[マッシモ・ゴッビ]]にポジションを奪われることになった。
;2007-2008シーズン
:*同ポジションの[[フェデリコ・バルザレッティ]]がユヴェントスから移籍してきたが、監督の[[チェーザレ・プランデッリ]]からの信頼は絶大であり、シーズン前半はレギュラーポジションを守っていた。しかしチームはプレシーズンに移籍していった[[ルカ・トーニ]]の穴を埋めるべく様々なシステムを試行、徐々にクロス主体の戦術からショートパス主体の戦術になり、シーズン後半はドリブルの技術面で分があった[[マッシモ・ゴッビ]]にポジションを奪われることになった。
 
:*2008-2009シーズン、クラブは[[UEFAチャンピオンズリーグ]]出場権獲得を受けて、大型補強を敢行、前年度のセリエA最優秀ディフェンダー賞にノミネートされた[[フアン・マヌエル・バルガス]]を獲得する。これによってパスクアルはゴッビと共に1つのポジションを3人で争うことになった。限られた出場機会であったが、バルガスがサイドハーフにポジションを上げた事や、新加入した[[アルベルト・ジラルディーノ]]との相性の良さもあり徐々に調子を上げていく。試合数も増えたことにより、シーズン後半はゴッビとのターンオーバーでプランデッリ監督の信頼を再び取り戻す。
;2008-2009シーズン
:*クラブは[[UEFAチャンピオンズリーグ]]出場権獲得を受けて、大型補強を敢行、前年度のセリエA最優秀ディフェンダー賞にノミネートされた[[フアン・マヌエル・バルガス]]を獲得する。これによってパスクアルはゴッビと共に1つのポジションを3人で争うことになった。限られた出場機会であったが、バルガスがサイドハーフにポジションを上げた事や、新加入した[[アルベルト・ジラルディーノ]]との相性の良さもあり徐々に調子を上げていく。試合数も増えたことにより、シーズン後半はゴッビとのターンオーバーでプランデッリ監督の信頼を再び取り戻す。
 
== 備考エピソード ==
*パスクアルは、プロ入り後に大きな怪我をしていない。