「山城屋事件」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
7行目:
 
翌[[1872年]](明治5年)、[[江藤新平]]率いる司法省による本格的な調査が始まろうとした同年11月、山縣から至急の返済を求められた山城屋は公金返済が不可能であったため、陸軍省内部で割腹自殺。その際、関係する帳簿と長州系軍人の借金証文類も焼き払われた為、事件の真相は解明されることなく、陸軍省会計監督長船越衛の処分をもって収束する。
 
 
一説には[[徴兵令]]を推進する山縣とこれに反発する桐野を代表する薩摩系を中心とした保守的な軍人の対立があり、しかも後者が山縣の抑制に期待をかけた[[西郷隆盛]]が、却って山縣を評価して弟の[[西郷従道|従道]]とともに徴兵令の実施を支援したことに対する山縣への嫉妬と敵意がこの事件の追及を強めた原因とされる。事実、西郷は最後まで山縣の辞任には反対しており、辞任後[[岩倉使節団]]の一員として洋行中の[[大久保利通]]に対して山縣を擁護出来なかったことを詫びる手紙を送っている(1872年8月12日付大久保宛西郷書簡)。
 
また、司法省の権限強化を目指した江藤新平の追及もこの事件に大きな影響を与えている。江藤は、薩摩系軍人が山城屋の事務所封鎖を計画しているのを知ってこれを抑え、司法省が直接捜査に乗り出すよう指示を出している<ref>毛利敏彦『明治六年政変』68ページ。[[NHK]]「歴史秘話ヒストリア」2009年5月20日放送</ref>。
 
山縣有朋が明治6年3月付で、在パリの鮫島弁理公使に書いた書簡には、「(和助は)帰国後商法種々手違之故をもって旧臘(昨年の和暦12月)自刃におよび相果て、自首致候手代とも即今裁判所にて取糺中にこれあり」とあって、山城屋の死後も司法省によって事件が追及されていたことがわかる<ref>三宅守常著「山田顕義と教育-続-在フランス山田顕義の1通の手紙をめぐって」(日本大学精神文化研究所紀要 20 p99〜125 )</ref>。
 
== 関連年表 ==