「二本松家泰」の版間の差分

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[[永正]]9年([[1512年]])、二本松畠山氏第11代当主・[[二本松村国|畠山村国]]の嫡男として生まれる。この時期の二本松畠山氏の系譜については諸説有る。
 
[[天文 (元号)|天文]]11年([[1542年]])3月、父・村国の死去にともない家督を継ぐ。同年6月、奥羽越三国を巻き込んだ[[伊達氏]]の[[天文の乱]]が発生すると、この乱の影響を受けて、畠山氏の家中においても両派に分かれて抗争が発生した。家泰は[[伊達稙宗|稙宗]]方に属し、翌天文12年([[1543年]])8月には堀越興行と共に稙宗を畠山領の[[信夫郡]][[八丁目城]]に迎え入れると、稙宗は天文14年([[1546年]])3月に[[大森城]]に移るまでここを居城とした。
 
天文15年([[1546年]])4月23日死去。享年35。嫡男の[[二本松義氏|義氏]]<ref>『松府来歴金華鈔』では、義氏を家泰の弟としている。</ref>が後を継いだ。天文の乱に関する史料上の記事では、家泰存命中の時点においても畠山氏の活動を義氏の名で以て記しているが、これは両者が混同されたか、あるいは既に義氏が政務を執っていたことによるのかは不明である。