「中山兼宗」の版間の差分

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[[仁安 (日本)|仁安]]2年([[1167年]])叙爵。[[侍従]]・[[近衛府|左近少将]]・[[近衛府|右近中将]]・[[阿波国|阿波介]]・[[伊予国|伊予権介]]・[[播磨国|播磨権介]]・[[備中国|備中権介]]を歴任。[[建久]]4年([[1193年]])[[蔵人頭]]に補任され、同6年[[参議]]に任ぜられ、[[大納言|権大納言]]を経て[[建暦]]元年([[1211年]])[[正二位]][[大納言]]に至った。議政官として、[[大嘗祭|大嘗会]]御禊次第司御後長官・[[加賀国|加賀権守]]・[[中宮職|中宮]]([[九条立子]])大夫・[[按察使]]などを兼帯。[[建保]]6年([[1218年]])息子の[[中山忠定|忠定]]を[[参議]]に申請して自らは[[大納言]]を辞すが、2年後の[[承久]]2年には「子強好交衆、又増不孝耳」(『[[明月記]]』[[寛喜]]元年4月9日条)のため忠定を[[解官]]させており、父子の確執は深まり、[[天福 (日本)|天福]]元年([[1233年]])には[[三浦義村]]や[[藤原定家]]の調停を受けるまでに騒ぎは大きくなった。[[嘉禎]]元年([[1235年]])[[大隅国]]の[[知行|知行国主]]となる。仁治3年([[1242年]])9月3日、80歳で薨去した。
 
歌人としては『[[千載和歌集]]』(歌番号328)に1首入る他、『[[新古今和歌集]]』以後の勅撰和歌集に20首入集し、建久2年の若宮社歌合、[[六百番歌合]]、[[千五百番歌合]]、経房家歌合などにも出詠している。『[[井蛙抄]]』巻六によれば、定家は「歌は兼宗大納言、[[束帯]]にて陣座に着て。公事をこなひたる様によむべし」と語ったと伝えられる。また[[治承]]3年([[1179年]])正月には[[高倉天皇]]の朝勤[[行幸]]の御遊に伺候し、初めて[[箏]]の役を務めて以来、建久 5年には楽所[[別当]]にも補され、種々の[[和歌]]会御遊などでも[[]]や[[琵琶]]の役を担当したことが知られる。
 
 
== 関連項目 ==
* [[花山院家|花山院流]]
* [[中山家]]
 
 
{{先代次代
|[[中山家]]
|第 2代
|[[中山忠親]]
|[[中山忠定]]
}}
 
 
[[Category:中山家|かねむね]]