「梁師都」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Yonoemon (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
編集の要約なし
22行目:
|注釈 =
}}
'''梁師都'''(りょうしと)は[[隋|隋末]][[唐|唐初]]に割拠した群雄の一人。[[夏州]][[朔方県]]の人。
 
== 経歴 ==
師都は、朔方郡の豪族の家に生まれた。隋に仕えて鷹揚府郎将となった。[[大業]]末年、辞任して帰郷し、数十人の人々と結んで隋に反抗し、朔方郡丞の唐世宗を殺し、郡に拠って大丞相を称し、北の[[突厥]]と同盟した。隋の張世隆の攻撃を撃退し、彫陰・弘化・[[延安]]を攻略した。梁国を建てて、[[皇帝]]を僭称し、[[永隆 (梁師都)|永隆]]と元号を立てた。突厥の[[始畢可汗]]により大度毘伽可汗・解事天子の号を受け、突厥の兵を率いて[[オルドス地方|オルドス]]の地に盤踞し、[[塩川郡]]を抜いた。
 
[[619年]]、[[霊州]]を攻撃した。突厥の千騎とともに野猪嶺に野営していたところ、唐の延州総管段徳操が進軍してきた。段徳操の兵は寡兵で戦おうとしなかったので、師都の兵の士気はゆるんできた。段徳操は副総管の梁礼を向かわせて師都と戦わせ、戦いが長期化してきたころ、段徳操は自ら軽騎を率い、多くの旗幟をひるがえらせて攻撃すると、師都の軍は総崩れとなり、多くの死者を出した。しばらくして師都は五千の兵で侵入したが、段徳操はまた師都の軍を撃破した。
 
[[620年]]、[[劉武周]]が唐に敗れた後、師都の部将の張挙・劉旻は唐に降った。師都は尚書の陸季覧を突厥の[[処羅可汗]]のもとに送り、「隋が滅び、中国は四分五裂して、群小はみな争って突厥につきました。しかし今唐が劉武周を滅ぼし、国は強大化しています。師都は旦夕のうちにも滅び、次にはまた可汗にも及びましょう。可汗には[[北魏|魏]]の[[孝文帝]]の故事のように、兵を南にお出しになり、師都を道案内とするようお願いします」と説かせた。処羅可汗はこれを聞き入れ、莫賀咄設を五原に入らせ、泥歩設と師都を延州に向かわせて、処羅可汗自身は太原を攻め、[[突利可汗]]と[[奚]]・霫・[[契丹]]・[[靺鞨]]には幽州道で合流させ、[[竇建徳]]には滏口から晋州・絳州で合流させることとした。しかしときに処羅可汗が亡くなり、突厥の兵は出されることなく、師都はまた段徳操に破れた。