「市川團十郎 (5代目)」の版間の差分

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| 没日 = 9
| 本名 = 梅丸(幼名)
| 襲名歴 = 1. 松本幸蔵<br />2. 三代目松本幸四郎<br />3. '''五代目市川團十郎'''<br />4. 市川蝦蔵<br />5. 成田屋七左衛門<br />6. 初代市川白猿
| 俳名 = 梅童・男女川・三升・白猿・<br />反古庵<br />花道のつらね(狂歌)
| 別名 = 成田屋七左衛門(隠居)
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1754年([[宝暦]]4年)父が四代目團十郎を[[襲名]]すると同時に三代目[[松本幸四郎]]を襲名。市川家の御曹司として名を売る一方で着実に実力を上げ、1757年(宝暦7年)、江戸[[中村座]]で父が三代目[[市川海老蔵]]襲名を機に、五代目市川團十郎を襲名。『[[暫]]』を初代團十郎から累代伝来の衣装で勤める。父の死後は江戸歌舞伎の第一人者として君臨し、1791年([[寛政]]3年)11月、江戸[[市村座]]において、[[市川蝦蔵]]を襲名したが、これは「父は海老蔵と称したが、おのれは謙遜して雑魚えびの蝦」と遠慮したものだった。同時に俳名を白猿とし、「白猿も祖父栢筵の音だけを取り、名人には毛が三本足らぬ」という口上を述ている。養子四代目海老蔵に、[[市川團十郎 (6代目)|六代目市川團十郎]]の名跡を譲った。
 
1796年(寛政8年)引退。成田屋七左衛門と名乗り向島反古庵に隠居。一時[[市川白猿]]の名で舞台に立つ事もあったが、本格的な復帰は[[1799年]](寛政11年)5月に六代目市川團十郎が早世した後である。翌年(寛政12年)11月市村座で市川家元祖百年忌追善興行及び孫の五代目市川海老蔵の[[市川團十郎 (7代目)|七代目市川團十郎]]襲名の口上とだんまりの大伴山主役に出る。1801年([[享和]]元年)[[河原崎座]]で[[桜田治助|三代目桜田治助]]作の『名歌徳三升玉垣』に般若五郎をつとめたのを最後に翌年引退。
 
1806年(文化3年)、66歳で死去。[[辞世の句]]は「木枯らしに 雨もつ雪の 行衛かな」。また孫でこの年15歳になったばかりの[[市川團十郎 (7代目)|七代目團十郎]]の将来を祝福して「顔見世や 三升樽の 江戸のつや」。