「佐々倉桐太郎」の版間の差分

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[[明治]]4年([[1871年]])[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学寮]]に出仕、[[明治]]6年([[1873年]])には兵学権頭となり、海軍軍人の育成に努めた。
 
==人物 ==
[[咸臨丸]]が、[[サンフランシスコ]]に入港した際、米海軍から21発の礼砲をうけた。この際、日本側から答砲の話がでたが、これに対して[[勝海舟]]は失敗したら恥になるからと、強硬に反対した。これに対して佐々倉は失敗はしない。答砲すべきだと反論した。それに対し勝は「成功したら俺の首をやる」と言い不快感をあらわした。
その結果、無事答砲は成功し、佐々倉は「今[[勝海舟|勝麟]]の首を貰っても良いが、艦長も首が無いと不便だろうから、日本に着くまで預けておこう」と言い乗組員を笑わせたと言う。
 
== 登場作品 ==