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[[天保]]年間に[[高島秋帆]]によって西欧の火器用兵術が紹介され、殊に武州徳丸原(ぶしゅうとくまるがはら=現、[[東京都]][[板橋区]]高島平)での公開演練の後は、[[江戸幕府]]や西南雄藩において「高島流砲術」として導入され急速に普及した。これはこれまでの砲術と異なって、命中精度より集団運用による所謂「弾幕を張る」等の用兵が主であり、それまで無かった「号令」による一糸乱れぬチームーワークで火器を駆使するための戦術プラス銃砲術の性格を持ったものであった。折りしも欧米列強の外圧や[[幕末]]の動乱等の時代に至り急速に普及した。さらに江戸幕府及び西南雄藩等では独自に[[イギリス]]、[[フランス]]の教練書を翻訳し、銃器や戦術の進歩に対応英國歩兵練法」「』『佛蘭西歩兵操練書等の教練書を作成して「鉄砲組」は「歩兵隊」または「銃隊」へと改組され、これまでの和流砲術家達も洋式砲術を学びなおす等により、和流砲術は消滅していった。
 
==流派==
 
*[[稲富流砲術|稲富流]]
*[[外記流砲術|外記流]](井上流)