「ジェルメーヌ・タイユフェール」の版間の差分

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友人たちとともに[[モンマルトル]]や[[モンパルナス]]の芸術家集団と親交を結び、その中で知り合った彫刻家の[[エマニュエル・サントール]]は、後にタイユフェールの妹と結婚した。「フランス六人組」の原型が出来上がったのも、モンマルトルの友人の画家のアトリエにおいてであった。ジャン・コクトーの宣言文『牡鶏とアルルカン』が出版されると、音楽評論家で作曲家のアンリ・コレの批評によって、「フランス六人組」という名称が与えられ、一躍グループを有名にした。タイユフェールは「六人組」の紅一点のメンバーである。
 
「六人組」は、当初は共作を行い、ピアノ曲集『六人組のアルバム ''Album des Six''』などを出版した。[[ルイ・デュレ]]を除く5人は、その後もコクトーの台本『[[エッフェル塔の花嫁花婿]] ''Les Mariés de La Tour Eiffel''』をもとにバレエ音楽を共作した。このバレエは、もともとコクトーがオーリックに持ちかけて始まったのだったが、オーリックがリハーサルに間に合うように作曲できるほどの速筆ではなかったため、六人組で共作することになったのである。この頃デュレはパリにいなかったために参加していない。[[モーリス・ラヴェル|ラヴェル]]や[[エリック・サティ|サティ]]の評価をめぐる他の同人との意見の食い違いから、デュレはやがて六人組を脱退することになったが、この頃デュレはまだ毎回、六人組の演奏会に出席しており、その後も他の同人との関係は悪くなかった。また六人組は、もとより各人の志向性に相違があり、それぞれの同人が初めから別々の道を歩んでいたことにも留意すべきであろう。
 
タイユフェールはといえば、[[モーリス・ラヴェル]]の知遇を得て、[[1923年]]からモンフォール=ラモリのラヴェルの自宅に通って個人指導を受けていた。ラヴェルは早くから彼女とミヨーの才能を激賞しており、タイユフェールに[[ローマ大賞]]選抜試験を受験するように励ましていた。しかし[[1925年]]、タイユフェールはアメリカ人の諷刺漫画家[[ラルフ・バートン]]に口説き落とされ、結婚して[[ニューヨーク]]の[[マンハッタン]]に移住してしまう。[[1927年]]に二人はフランスに戻るが、[[チャーリー・チャップリン|チャップリン]]を含む幅広い著名人と親交の深かったタイユフェールに対して、バートンが嫉妬から兇暴化し(一説によると[[家庭内暴力]]さえ日常的であったといわれる)、耐え難くなったタイユフェールは、間もなくバートンと離婚した。