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'''姫鵬飛'''(き ほう)は[[中華人民共和国]]の[[政治家]]。[[中華人民共和国国務院|国務院]]副総理、[[中華人民共和国外交部|外交部部長]]などを努めた。
 
==略歴==
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[[中華人民共和国]]成立後は[[中華人民共和国外交部|外交部]]に転じ、外交畑を歩む。[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]初代大使に就任。[[1955年]]から外交部副部長、以降は[[周恩来]]、[[陳毅]]とともに中国外交を支える。
 
[[文化大革命]]中の[[1972年]]に死亡した陳毅の代理として外交部長職を代行、後に正式就任した後は日本の[[田中角榮]][[首相]]の訪中により[[日中国交正常化]]が実現した際、[[大平正芳]][[外務大臣 (日本)|外相]](当時)と共に[[日中共同声明]]に署名した。1979年[[中共中央対外聯絡部|対外連絡部長]]、[[中華人民共和国国務院|国務院]]副総理兼秘書長。1982年から国務委員、第5期[[全国人民代表大会]](全人代)常務副委員長兼秘書長。1992年までの10年間、国務院香港マカオ弁公室主任、[[香港特別行政区基本法]]起草委員会主任として香港・マカオの復帰の事前準備を担当。香港問題に関する中英共同声明調印式にも出席した。
 
[[2000年]]、息子の[[姫勝徳]]が[[遠華密輸事件]]に関与していたこと(死刑判決が出たが、執行が猶予され、のち無期懲役に変更)に関連し、冤罪ゆえの免除を江沢民に要求したがけられ、[[2000年]]2月に、抗議の服毒自殺をしたといわれている。中国外交の功労者でありながら、これらの理由で彼の葬儀は地味なものになり、2001年10月に出た[[新華社]]の死亡記事も非常に簡単なものとなった。2010年2月2日、北京の人民大会堂で「姫鵬飛生誕100周年記念座談会」が開催された。
 
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