「松本学」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
銅閣寺 (会話 | 投稿記録)
新しいページ: ''''松本 学'''(まつもと まなぶ、1887年11月20日(ただし、戸籍上は同年12月28日)-1974年3月27日)は、[[大...'
 
Cat追加など
1行目:
'''松本 学'''(まつもと まなぶ、[[1887年]][[11月20日]](ただし、戸籍上は同年[[12月28日]])-[[1974年]][[3月27日]])は、[[大正]]・[[昭和]]期の[[内務省 (日本)|内務]][[官僚]]。旧姓は片岡(断絶した外祖父の松本家を再興した際に改姓した)。
 
[[関西高等学校|関西中学校]]・[[第六高等学校 (旧制)|第六高等学校]]・[[東京大学|東京帝国大学]]法科大学を経て、[[1911年]]に[[高等文官試験]]に合格して同年の大学卒業とともに内務省に入省する。神社局長を経て[[1932年]]に[[鹿児島県知事]]に任ぜられるが、[[立憲民政党]]系とみなされて翌年に[[立憲政友会]]政権が行った地方官人事で休職が命じられた。[[1933年]]に[[福岡県知事]]に任じられる。[[1932年]]の[[国維会]]結成に参加して「[[新官僚]]」の1人として認知され、同年[[五・一五事件]]直後に[[警保局長]]に任じられ、[[共産主義]]弾圧と[[日本主義]]普及を推進、「邦人一如」を合言葉に[[日本文化連盟]]を結成した。
 
退官後は[[貴族院 (日本)|貴族院]][[勅撰議員]]に任じられたが、同郷で親交の厚い[[宇垣一成]]を[[内閣総理大臣]]に擁立しようとして[[軍部]]に阻まれた。戦後は、[[社団法人]][[世界貿易センター]]会長を務め、日本の貿易振興に務めた。
 
大変筆まめな人物で10歳の時から63年間にわたってつづられた日記をはじめ、内務官僚・貴族院議員・戦後期にわたる多くの資料・保存していた。特に[[1930年代]]の日本の国家主義や軍部の台頭にまつわる資料を多く残しており、[[国立国会図書館]]憲政資料室・関西高等学校(旧関西中学校)などに保存されている。
 
== 参考文献 ==
*小田部雄二「松本学/松本学関係文書」『国史大辞典 13』、吉川弘文館、1992年、 ISBN 978-4-642-00513-5
 
{{DEFAULTSORT:まつもと まなふ}}
[[Category:日本の内務官僚]]
[[Category:貴族院勅選議員]]
[[Category:鹿児島県知事]]
[[Category:静岡県知事]]
[[Category:福岡県知事]]
[[Category:1887年生]]
[[Category:1974年没]]