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== 経歴 ==
祖父の代からの[[水戸藩]]士の家に生まれる。[[寛文]]5年([[1665年]])、[[江戸]]にて[[朱舜水]]の門下となり[[儒学]]を学ぶ。舜水の死によって、[[天和 (日本)|天和]]3年([[1683年]])、その弟子の人見懋斎が[[彰考館]]の初代総裁となり、編修として、ともに水戸藩の修史事業に携わることにる。しかし、藩主[[徳川水戸光圀]]は、側近佐々宗淳の推挙により『[[大日本史]]』って、藤原惺窩流れをくむ森尚謙を修に抜擢。以後、澹泊は、尚謙行う激しく論難し続ける光圀の隠居の後、[[元禄]]6年([[1693年]])、澹泊は彰考館総裁となり、天皇の本紀以外の修史を停止してしまい、列伝を扱う尚謙らを冷遇する。このため、[[元禄]]10年([[1697年]])、尚謙らは、水戸に移り、新たに水戸彰考館(水館)を興し、列伝の編纂を続けなければならなかった。江館の澹泊は、尚謙らの水館との対立を続け、[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])にようやく彰考館総裁を辞任するがその後も死の直前まで『大日本史』の執筆、校訂を続けた。 水戸藩士としての石高は300石。[[享保]]18年([[1733年]])に致仕した。
 
 尚謙の穏健な水戸学は藩校の[[弘道館]]に引き継がれ、一方、澹泊の陽明学的で行動的な水戸学は、幕末に[[桜田門外の変]]や[[天狗党の乱]]を引き起こすことになる。これを引き留めようとした弘道館の諸生党は、あたかも佐幕派であるかのように位置づけられ、[[戊辰戦争]]において、天狗党残党は、これらを惨殺して、尊皇派として明治維新の勝ち組となる。そして、澹泊を顕彰すべく、[[明治]]35年([[1902年]])11月8日、明治政府は彼に正四位を贈った。
水戸藩士としての石高は300石。[[享保]]18年([[1733年]])に致仕した。[[明治]]35年([[1902年]])11月8日、明治政府より、贈正四位。
 
== 学説・著書等 ==
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