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{{右|[[Image:Orville Wright.jpg|150px|thumb|オーヴィル・ライト]]}}
{{右|[[Image:ShimadaK2008-Wright Cycle shop Dayton-PICT2714.jpg|150px|thumb|デイトン市内に保存されている自転車屋]]}}
'''ライト兄弟'''(-きょうだい)は[[飛行機]]の発明者<ref>[[ブラジル]]文部文化省の公式見解では、ライト兄弟に3年遅れて初飛行を果たした[[アルベルト・サントス・デュモン|サントス・ドュモン]]こそが飛行機の発明者であり、これを公式に宣言したフランス航空協会の賞状が存在する。ライト兄弟は秘密実験だったのに対してサントス・ドュモンは公開試験で成功させたとしている。さらにライト兄弟の初飛行は斜面を駆け下り、カタパルトを用いていたとしている。このような説がブラジルでは広く信じられているが、それは史実に反する。45馬力のエンジンを搭載したサントス・デュモンの飛行機は操縦性能などの点ではるかにライト兄弟の初飛行より優れていたが、当然のことながらライト兄弟の飛行機も3年間で大きな進化をしていた。</ref>で世界初の飛行機パイロットとなった兄弟である。世界最先端の[[グライダー]]パイロットでもあった。[[自転車]]屋<ref>兄弟は自転車屋を何度も移している。一所がデイトン市内に史跡として整備されている他、デトロイトのフォード博物館内に移設されたものがある。</ref>をしながら兄弟で研究を続け、1903年に世界初の飛行機の発明を果たす。
 
==兄弟==
;*'''ウィルバー・ライト'''(Wilbur Wright、[[1867年]][[4月16日]] - [[1912年]][[5月30日]])ライト家の3男でオーヴィル・ライトの兄。[[インディアナ州]]東部の小さな村ミルビル([[w:Millville, Indiana|Millville]])出身。
:*'''オーヴィル・ライト'''(Orville Wright、[[1871年]][[8月19日]] - [[1948年]][[1月30日]])ライト家の34男でオーヴィルバー・ライトの。[[オハンディアナ州]]東部の小さな村ミルビル([[w:Millville,デイトン Indiana(オハイオ州)|Millvilleデイトン]]出身。
;オーヴィル・ライト(Orville Wright、[[1871年]][[8月19日]] - [[1948年]][[1月30日]])
:ライト家の4男でウィルバー・ライトの弟。[[オハイオ州]][[デイトン (オハイオ州)|デイトン]]出身。
 
2人は牧師の息子として生まれ、2人の兄(ルクラン、ローリン・ライト)と1人の妹(キャサリン)がいた<ref>[http://www.wetwing.com/wright/keifu/keihu.html 家系図]</ref>。母は結核により早世している。
 
兄弟は生涯の大部分を[[デイトン (オハイオ州)]]で過ごした。グライダー実験と最初の動力飛行を[[キルデビルヒルズ]]で済ませたのちの飛行活動は現在[[ライト・パターソン空軍基地]]の敷地内にある[[ハフマンプレーリー]](一般見学可能)を中心に行われた。
 
==時代==
時は十九世紀末、既に陸には車が走り、海や川では蒸気船が幅を利かせ、そして最初の有人飛行をした[[モンゴルフィエ兄弟]]に始まる[[熱気球]]から派生した[[飛行船]]が既に実用化されたときにありながら、空をかける機械の存在のみだけは皆無でこの分野だけはまったく発展途上にあった。<br>
唯一の手掛かりとして[[ジョージ・ケイリー]]の[[グライダー]]を基に研究が[[オットー・リリエンタール]]によって進められていた。しかし当時はまだ[[ハイラム・マキシム]]など、実質多くの研究家は正しく飛行のための理論を確立するに至らず依然として暗中模索のときが続いていた時代だった。<br>
1896年のリリエンタールの死後、これを皮切りにライト兄弟は飛行機を完成させることを考え、<br>
これが史上初の動力飛行成功へ向けてのきっかけとなり、時代を新たにひらく成功への一歩となった。
 
 
== 事績 ==
 
[[Image:Wrightflyer.jpg|thumb|right|300px|1903年12月17日、[[ノースカロライナ州]]キティホークの[[キルデビルヒルズ]](Kill Devil Hills)[[砂丘]]における初飛行。操縦者はオーヴィル。横にいるのはウィルバーで、離陸滑走の間、地面に触れないように支えていた翼端を離したところ。このとき、これをみていた観客はわずか5人しかいなかった。
 
[[1903年]][[12月17日]]に[[ノースカロライナ州]]の[[キティホーク]](町)にある[[キルデビルヒルズ]]にて12馬力のエンジンを搭載した「[[ライトフライヤー号]]」によって世界で初の有人動力飛行に成功した。<br>
兄弟が初飛行に成功したときの写真は撮影を兄弟に頼まれた海難救助所員のジョン. T. ダニエルズが撮ったもの。オーヴィルが写真技術を持っていたため多くのよい記録写真が撮られているが<refbr>{{Cite web
}}オーヴィルが写真技術を持っていたため多くの良い記録写真が撮られているが<ref>[http://www.wetwing.com/wright/wrightfoto/wfotoindex.html][http://www.firstflight.org/wrightbros.cfm]</ref>[[デイトン (オハイオ州)#歴史|1913年のグレートマイアミ川の洪水]]でかなりの数の乾板が損傷した。残ったものは米国会図書館ライト兄弟アーカイブ<ref>{{Cite web[http://lcweb2.loc.gov/ammem/wrighthtml/]</ref>に保管されている。
 
それまでの飛行の試みの多くが跳躍かその延長のものでしかなかったのに対して、[[たわみ翼|主翼をねじる]]ことによって制御された飛行を行い、飛行機の実用化に道を開いた。しかし、当初世間はこれを理解せずむしろ冷淡であり、国内ではさまざま様々な事情から特許権関係の問題を突きつけられたりさえしていた。
 
[[Image:Wrightflyer.jpg|thumb|right|300px|1903年12月17日、[[ノースカロライナ州]]キティホークの[[キルデビルヒルズ]](Kill Devil Hills)[[砂丘]]における初飛行。操縦者はオーヴィル。横にいるのはウィルバーで、離陸滑走の間、地面に触れないように支えていた翼端を離したところ。このとき、これをていた観客はわずか5人しかいなかった。
]]
[[1903年]][[12月17日]]に[[ノースカロライナ州]]の[[キティホーク]](町)にある[[キルデビルヒルズ]]にて、12馬力のエンジンを搭載した「[[ライトフライヤー号]]」によって世界で初の有人動力飛行に成功した。
兄弟が初飛行に成功したときの写真は撮影を兄弟に頼まれた海難救助所員のジョン. T. ダニエルズが撮ったもの。オーヴィルが写真技術を持っていたため多くのよい記録写真が撮られているが<ref>{{Cite web
|author=原俊郎
|authorlink=原俊郎
|url=http://www.wetwing.com/wright/wrightfoto/wfotoindex.html
|title=ライト兄弟が撮った写真
|work=ライト兄弟のひみつ
|accessdate=2010-01-11
}}</ref><ref>{{Cite web
|url=http://www.firstflight.org/wrightbros.cfm
|title=The Wright Brothers
|publisher=First Flight Society
|language=英語
|accessdate=2010-01-11
}}</ref>、[[デイトン (オハイオ州)#歴史|1913年のグレートマイアミ川の洪水]]でかなりの数の乾板が損傷した。残ったものは米国会図書館ライト兄弟アーカイブ<ref>{{Cite web
|url=http://lcweb2.loc.gov/ammem/wrighthtml/
|title=The Wilbur and Orville Wright Papers
|publisher=The Library of Congress
|language=英語
|accessdate=2010-01-11
}}</ref>に保管されている。
 
それまでの飛行の試みの多くが跳躍かその延長のものでしかなかったのに対して、[[たわみ翼|主翼をねじる]]ことによって制御された飛行を行い、飛行機の実用化に道を開いた。しかし、当初、世間はこれを理解せず、むしろ冷淡であり、国内ではさまざまな事情から特許権関係の問題を突きつけられたりさえしていた。
 
=== 科学的に不可能 ===
ライト兄弟は実験に成功したが、当初社会はこれを信用をしないばかりかこぞって反発さえしていた。
[[サイエンティフィック・アメリカン]]、ニューヨークチューンズ、ニューヨーク・ヘラルド、[[アメリカ合衆国陸軍]]、[[ジョン・ホプキンス大学]]の数学と天文学の教授[[サイモン・ニューカム]]など各大学の教授、その他アメリカの科学者は新聞などでライト兄弟の試みに「機械が飛ぶことは科学的に不可能」という旨の記事やコメントを発表していた。
 
逆に後年[[ヘリコプター]]の実用性が議論されるようになった時期、オーヴィルは1936年の書簡中で「ヘリコプターには根本的な問題がある」、「ヘリコプターの開発には資金がかかりすぎる上に商用性もおぼつかないので誰もとりかかられないだろう」と書いている<!-- [http://www.cmhski.com/cgi-bin/newsPages.py?sectionID=2&storyID=26&manager=StoryPage] アクセス不能-->。
 
=== 成功のポイント ===
それまで多くの研究者の飛行への挑戦がことごとく失敗を重ねて来たのに対し<ref>長らく挑戦者の多くが鳥のように羽ばたく機構の飛行機([[オーニソプター]])を作っていたのも一因と推測される。19世紀に入って近代的な航空機の研究が始まったが、模型飛行機を拡大すればよいとして、操縦特性の研究を軽視する傾向がられた。</ref>、ライト兄弟は当時としては極めて高度な科学的視点から飛行のメカニズムを解明し、[[風洞]]実験によって得たデータを元に何機かの[[グライダー]]試作機を作成し一歩一歩堅実に飛行機の製作を行った。研究の初期には当時の飛行機開発の最先端を行っていた[[サミュエル・ラングレー]]教授から研究資料の提供を受けるなどしていたりした。
 
[[グライダー]]による実験の回数もリリエンタールらに比べてはるかに上回り、多くの実験データを収集すると共に飛行技術を身につけることができた。グライダーを基礎にまず操縦を研究して、自らそのパイロットになってから動力を追加するのが彼らの戦略であり、他のプロジェクトは動力機体の製作しか眼中になかったと本人たちが述べている<ref>[http://www.ssa.org/UsTeam/ust_press.htm History of Soaring]</ref>。<br>
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<references/>
 
==参考文献出典==
[[#飛行成功後の苦悩と闘い]]出典元
*『思い違いの科学史』p115-130「ライト兄弟より先に飛んだ飛行機」市場泰男 著、2002年、朝日文庫 ISBN 4-02-261368-8