「日活撮影所」の版間の差分

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1927年(昭和2年)に建設され、時代劇部は12月に移転、現代劇部は翌1928年(昭和3年)4月に移転した。1932年(昭和7年)、[[マキノ・プロダクション]]を解散したマキノ正博(のちの[[マキノ雅弘|雅弘]])が監督として同撮影所に入社したが、父の代からの因縁でまもなく[[横田永之助]]が解雇した。やがて横田は更迭され、1937年(昭和12年)には[[マキノトーキー製作所]]を解散したマキノ正博が再度入社している<ref>[[立命館大学]]衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「[http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/makino/makinoP/research-act.htm マキノ映画活動史]」の記述を参照。</ref>。
 
1939年(昭和14年)、[[日中事変戦争]]などの流れにより[[映画法]]が制定され、1942年(昭和17年)には日活の製作部門・[[新興キネマ]]・[[大都映画]]が統合された大日本映画製作株式会社([[大映 (映画)|大映]])が発足、日活太秦撮影所は「大映京都撮影所」となった。撮影所や従業員を含む製作部全体を拠出した日活は、映画興行会社として存続した。
 
同撮影所は[[大映京都撮影所]]として戦後も存続し、1986年(昭和61年)4月に閉鎖された。