「目黒のさんま」の版間の差分

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'''目黒のさんま'''(めぐろのさんま)とは[[落語]]の[[噺]]の一つである。[[さんま]]という下魚(低級な魚=さんま)。これを産地から離れた場違いな場で無造作に調理したものが美味く、丁寧に調理したものはかえって不味いという滑稽噺。落語界の中では秋の噺としてよく知られている。成立時期は不明。「目黒」という地名は広範囲(現在の区制で品川区も含む)を指すが、この話の「目黒」は目黒区であるという説と現在の[[渋谷]]であるという説がある
 
[[三遊亭金馬 (3代目)|3代目三遊亭金馬]]が得意としていた演目である。[[三遊亭圓楽 (5代目) |5代目三遊亭圓楽]]の演目の中で例外的にまともに聴けるものでもある。
== あらすじ ==
{{ネタバレ}}
殿様が[[目黒 (東京都後述)|目黒]]まで遠乗り(あるいは鷹狩)に出た際に、供が弁当を忘れてしまった。殿様一同腹をすかせているところに嗅いだことのない旨そうな匂いが漂ってきた。殿様が何の匂いかを聞くと、供は「この匂いは下衆庶民の食べる下衆魚、[[サンマ|さんま]]というものを焼く匂いです。決して殿のお口に合う物ではございません」と言う。殿様は「こんなときにそんなことを言っていられるか」と言い、供にさんまを持ってこさせた。食べてみると非常に美味しく、殿様はさんまが大好きになった。
 
それからというもの、殿様はさんまを食べたいと思うようになる。ある日、殿様の親族の集会で好きなものが食べられるというので、殿様は「余はさんまを所望する」と言う。だが庶民の魚であるさんまなど置いていない。急いでさんまを買ってくる。
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なお、同工異曲の噺に「ねぎまの殿様」というのがあり、[[古今亭今輔 (5代目)|5代目古今亭今輔]]が得意とした。
== 「目黒」とはどこか ==
そもそも殿様が目黒に行ったのは、遠乗りであるという設定と、[[鷹狩]]であるという設定があるが、どちらでも大差はない。目黒「方面」というだけの話であり、方角を大雑把に示したものである(後述)。
[[江戸時代]]、[[目黒_(東京都)|目黒]]は[[征夷大将軍|将軍]]の[[鷹狩]]場として知られた。鷹狩場近辺に[[徳川幕府]]の庇護(ひご)下にあって繁栄した[[瀧泉寺|目黒不動]]がある。
===鷹狩場とはどこか===
[[江戸時代]]、[[征夷大将軍|将軍]]は[[鷹狩]]場を複数持っていた。単に「御場」とも呼ばれた。当然鷹狩り場なので、広い土地であることが求められる。その中の一つが「目黒筋」である(旧称:品川)。江戸期に「目黒筋御場絵図」という地図がまとめられ、鷹狩り場の範囲を知ることができる。馬込・世田谷・麻布・品川・駒場など、とんでもなく広い範囲がすべて含まれる。その中には無主の山林も含まれるが、作物を栽培する田畑も含まれる。将軍はそのような田畑の中までも土足でヅカヅカと入り込むのである。一説には、鷹狩りには政治的意図があり、領内の庶民の生活(ないしは不穏な動き)を直接知るための情報活動であったという一面があるとされる。それなれば、むしろ行動をパターン化せずに、気まぐれ(を装う)行動や移動を行っていたはずである。これが真の意図であれば、名目が鷹狩りであっても遠乗りであっても同じである。となると、落語では「将軍は目黒に行った」とあるが、この目黒を今日の目黒と同一視してはならず、単に南西方面のどこかに行ったと考えるべきである。
 
なお、江戸期に目黒筋鷹狩場の番人の屋敷であった場所は、現在[[鷹番]]と呼ばれている。
将軍は参詣・鷹狩のあとに近辺の茶屋で休息したという。この茶屋は彦四郎という名の百姓が開いたとされ、[[徳川家光|将軍家光]]が彦四郎の人柄を愛し「爺」と呼びかけたことから、'''爺が茶屋'''という名がついた。この爺が茶屋は[[歌川広重]]の「名所江戸百選」にも題材とされている。
===サンマを食したのはどこか===
鷹狩場近辺に[[徳川幕府]]の庇護(ひご)下にあって繁栄した[[瀧泉寺|目黒不動]]がある。将軍は参詣・鷹狩・目黒不動参詣のあとに近辺の茶屋で休息したという。この茶屋は彦四郎という名の百姓が開いたとされ、[[徳川家光|将軍家光]]が彦四郎の人柄を愛し「爺」と呼びかけたことから、'''爺が茶屋'''という名がついた。この爺が茶屋は[[歌川広重]]の「名所江戸百選」にも題材とされている。
 
爺が茶屋の場所について二説ある。
====渋谷区という説====
[[林百助]](俳号、立路)の随筆『立路随筆』に「祖父が茶屋(じいがちゃや)」は「目黒[[道玄坂]]」にあったという記述がある。道玄坂はもちろん現在の渋谷道玄坂のことだが江戸期は目黒道玄坂と呼ばれていた。
====目黒区という説====
目黒区、目黒駅と恵比寿駅の中間、ポーランド大使館・アルジェリア大使館近くに「茶屋坂」という坂があり、この近辺に爺が茶屋があったと信じられている。当地には[[目黒区]]教育委員会によって「茶屋坂と爺々が茶屋」という標識が設置されている。同地と目黒清掃工場の間に茶屋坂街かど公園という公園がある。
== 主人公の「殿様」とは誰か ==
[[赤井御門守]]とする場合が、あるいは単に「然る御大名」とだけ描き、名前を付さない演出も多い。
 
[[禽語楼小さん (2代目)|2代目禽語楼小さん]]の設定では、「殿様」を[[出雲国]](出雲の国なので「雲州」とも呼ばれる)、[[松江藩]]藩主・松平家(松平出羽守)の当主としている<ref>[http://web.archive.org/web/20071228052435/http://www.city.meguro.tokyo.jp/info/rekishi_chimei/category/rekishi/toubu/10.htm 目黒区 歴史を訪ねて 目黒のさんま]</ref>。この設定を以降多くの落語家が踏襲している。何代目かは特に設定されない。噺の設定は[[寛永]]年間にとっているので、[[松平直政]]とも推察できる。
 
[[林家彦六]](稲荷町)は、この殿様を徳川将軍家という設定にした。殿さまが後で食べるサンマを、江戸・日本橋で水揚げされたものとせず、徳川御三家の一つである[[水戸]]で水揚げされたものとする、スケールの大きな話に仕立てている。
 
単に「然る御大名」とだけ描き、名前を付さない演出も多い。
== 最初のサンマはどこで入手したか ==
殿さまが御殿で後に食したサンマは、上記のように日本橋で買ったもの(暗に高級であることを示唆。但し彦六のみ異なる描写)であるが、最初に目黒において最初に食べたサンマはどこで手に入れたものかについて、以下の諸説がある。
*[[芝浜]]の魚市場(ざこば)
*目黒川河口の魚市場(ざこば)