「ジョージ・パットン」の版間の差分

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====北アフリカ戦役====
[[File:Pattonhewitt.jpg|thumb|180px|[[オーガスタ (重巡洋艦)|オーガスタ]]に乗船したパットン少将と[[H・ケント・ヒューイット]]少将(1942年)]]
[[1942年]]11月にパットンは少将として、アメリカ第1機甲軍団を指揮し[[トーチ作戦]]で[[モロッコ]]に上陸した。その後次いで、[[中将1943年]]3月6日に中将に昇進し、同時に更迭されたフリーデンタール中将の後任として第2軍団を率の司令官に就任した。同軍団はドイツ・[[アフリカ軍団]]によって[[カセリーヌ峠の戦]]で大敗を喫したところであった。パットンは[[オマール・ブラッドレー]]少将を副官とした。多くの米軍将校や英軍将校によれば当時北アフリカに駐屯していた米軍は規律に緩く、弱かったらしい(当初は英軍に『われわれ(連合側)の[[イタリア軍]]』と揶揄されていた<ref name="Patton"></ref>)。パットンは着任早々将兵達に厳格に規律を守るように命令し、軍規を守らなかったものには容赦なく罰を科した。また、今までと全く違った厳しい訓練を行い、北アフリカの米軍を文字通り叩きなおした。良くも悪くも軍人らしい軍人だったパットンは必ずしも人気のある指揮官ではなかったが、敬意は払われていた。なおこれらの策は功を奏し、パットンの部隊は東から攻め寄せる[[モントゴメリー]]の英軍とドイツ軍を挟撃し、[[1943年]]5月までには、米英軍の攻撃によりドイツ軍北アフリカから撤退駆逐した。
 
====イタリア戦役====