「ジェイコブ・ドルソン・コックス」の版間の差分

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== オハイオ州知事 ==
コックスは軍を退いた後の[[1866年]][[1月1日]]、[[オハイオ州知事]]に選出された。コックスは[[1866年]]から[[1867年]]まで州知事を務めた。コックスは黒人参政権について穏健な立場をとり、[[アンドリュー・ジョンソン]]の[[レコンストラクション]]政策を支持した。だがこれにより、オハイオ州共和党からの反感を買い、2期目の州知事指名を拒否された。コックスは弁護士業を営むため、[[シンシナティ (オハイオ州)|シンシナティ]]に移った。
 
== アメリカ合衆国内務長官 ==
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== 晩年 ==
[[画像:Hon. Jacob D. Cox of Ohio.jpg|200px|thumb|晩年のコックス]]
コックスは内務省を離れた後、[[1872年アメリカ合衆国上院議員選挙|1872年の選挙]]で、連邦上院議員候補の1人として挙げられた。だがオハイオ州議会は、比較的保守的ではない候補を選出した。コックスは[[1873年]]から[[1878年]]まで[[トレド・アンド・ウォバシュ鉄道]]社長を務めた。コックスは[[1876年]]にオハイオ州で[[トレド (オハイオ州)|トレド]]地区から連邦下院議員に選出された。コックスは[[1877年]]から[[1879年]]まで連邦下院議員を1期2年務めた。[[1878年]]の出馬指名は辞退した。コックスはその後[[シンシナティ (オハイオ州)|シンシナティ]]へ戻り、[[1881年]]から[[1897年]]まで[[シンシナティ法科大学院]]の学部長を務めた。また[[1885年]]から[[1889年]]まで[[シンシナティ大学]]の学長を務めた。コックスは学部長を退いた後、[[ウィリアム・マッキンリー]]大統領から[[スペイン駐箚アメリカ合衆国大使|駐スペイン公使]]への就任を要請された。コックスはその要請を辞退した。またコックスは[[1876年]]から[[1900年]]まで、オベリン大学の理事を務めた。
 
晩年、コックスは複数の書物を執筆した。代表作に、