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[[1929年]][[早稲田大学]]政治経済学部政治学科を卒業後、[[大阪市役所]]に入職。若い頃から[[關一]]ら歴代市長の側近にあって市政の枢要に触れる。市民局長、総務局長を経て、[[1948年]]に助役となり、[[大阪市立大学]]の開設、[[ジェーン台風]]被災者の救援活動に尽力した。[[1956年]]、大阪市助役を退任する。
 
[[1963年]]、[[日本社会党|社会党]]・[[日本共産党|共産党]]・[[民社党]]、各労働組合や[[部落解放同盟]]の推薦を受け大阪市長選挙にクーデター的立候補し、[[自由民主党|自民党]]推薦候補を破り当選を果たす。
 
市長就任後は25年先を目標とするマスタープランを策定し、地下鉄網・高速道路網の整備拡張、[[梅田|大阪駅前]]再開発や[[船場センタービル]]・[[大阪マーチャンダイズ・マートビル]](OMM)等の建設を推進した。
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2期目以降は共産党を除いた各党相乗りの選挙となり、3選を果たす。この間第13代[[全国市長会]]会長などを務めた。
 
なお、在職中に労働組合や部落解放同盟の馴合いを深めたこと現在、今日[[大阪市の闇問題]]作っ生み出した原因の一つとされている。
 
墓は[[豊中市]]の大阪市立[[服部霊園]]にあり、墓地使用料と管理料は大阪市が負担していたが、2006年大阪市議会の要求で撤去を迫られ、現在、広大な跡地は市民の霊園として利用されている。
 
== エピソード ==