「レナード・フェザー」の版間の差分

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== 略歴 ==
[[ロンドン]]において、厳格な[[国教会]]信者の、上位中流階級の[[ユダヤ人]]の家庭に生まれる。正式な[[音楽教育]]は受けなかったが、[[ピアノ]]や[[クラリネット]]を演奏するようになり、十代後半にはすでに[[ジャズ]]や[[映画]]についての文章を手懸けていた。21歳で初めて渡米し、イギリスやアメリカで[[レコード]]・[[プロデューサー]]として働いた後、[[1939年]]に[[ニューヨーク・シティ]]に定住する。[[1960年]]に[[ロサンジェルス]]に移住して、歿年まで『[[ロサンジェルス・タイムズ]]』紙の首席ジャズ評論家を務めた。80歳でカリフォルニア州の[[シャーマン・オークス]]にて永眠。
 
[[ダイナ・ワシントン]]が歌った《イーヴル・ギャル・ブルース(''Evil Gal Blues'')》《ブロウトップ・ブルース(''Blowtop Blues'')》など、フェザーが作った楽曲は広く録音されているが、中でもおそらく最大のヒット曲は、[[ブルース]]のミュージシャンである[[ルイス・ジョーダン]]と[[B・B・キング]]によって発表された《ハウ・ブルー・キャン・ユー・ゲット(''How Blue Can You Get?'')》である。フェザーが[[バンドリーダー]]を務めたアルバムは、いくつか入手可能なものもある。[[エラ・フィッツジェラルド]]の持ち歌として名高い、[[ベニー・ゴルソン]]が作曲した[[ジャズ・スタンダード]]の《ウィスパー・ノット(''Whisper Not'')》に作詞したとも伝えられる(但し誤りとされる)。しかしながらフェザーの最大の遺功は、ジャズを主題とする文筆家としてのものであった。音楽ジャーナリストやジャズ評論家・ジャズ史研究家・講師としての活躍は、「フェザーは長い間、最も親しまれたジャズ評論家であり、最もジャズに影響力のある作家だった」<ref>Brian Priestley, in Carr, Fairweather, & Priestley, p.248</ref>と評されている。