「コンスタンス2世」の版間の差分

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しかしながらイスラームの圧力は帝国の西方領域でのみ高まっていたわけではなかった。661年には内戦が終結してムアーウィヤが単独のカリフとなっている([[ウマイヤ朝]])。ムアーウィヤは小アジアや東部地中海でも帝国に攻勢をかけ始めていた。そのためコンスタンス2世がシチリア島に連れてきた軍の中に不満が高まる。最後には中央軍長官の[[ミジジオス]](ムゼズ)の陰謀によって、入浴中に襲われ、2日後に死んだ。また同じ頃、小アジアでもサボリオスが反乱を起こしている。
 
宗教的な側面では、ヘラクレイオスの発布した「エクテシス」が不評だったこともあって、[[648年]]に「テュポス」を発布した。だがこの勅令も、単意論などへの配慮ゆえにローマ教会や、[[単性論]]・[[単意論]]を否定する[[東方教会]]の[[総主教]]・[[修道士]]などから強い反発を受けた。そのためコンスタンス2世は[[653年]]にローマ教皇[[マルティヌス1世]]、および[[単意論]]への反駁で影響力を発揮していた[[聖マクシモス|マクシモス]]を逮捕、前者を[[ケルソネソス|ケルソン]]へ、後者を舌と右手を切った上で[[コーカサス]]へ追放した。<br/>
 
なお彼の時代には小アジアにおける対イスラーム防衛システムが徐々に整備されていく。これがその後の[[テマ]]へと発展していくことになる。