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'''吉山 明兆'''(きつさん みんちょう、[[正平 (日本)|正平]]7年/[[文和]]元年([[1352年]]) - [[永享]]3年[[8月20日 (旧暦)|8月20日]]([[1431年]][[9月26日]]))は、[[室町時代]]前・中期の画僧。
 
[[淡路国]](現[[兵庫県]])出身。[[臨済宗]]の[[東福寺]]に入り、[[大道一以]]の画法を学んだ。周囲からは禅僧として高位の位を望まれたが、画を好む明兆はこれを拒絶して、[[明]]の[[李竜眠]]から画法を学び、初の寺院専属の画家として大成した。第4代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義持]]からもその画法を愛されている。僧としての位は終生、仏殿の管理を務める殿主(でんす)の位にあったので、兆殿主と称された。1431年、死去。享年80
 
東福寺には、『聖一国師像』や『四十八祖像』、『寒山拾得図』、『十六羅漢図』など、多くの著名作品がある。東福寺の仏画工房は以前から影響力を持っていたが、明兆以後は東福寺系以外の寺院からも注文が来るようになり、禅宗系仏画の中心的存在となった。これは明兆没後も工房の弟子達によって受け継がれ、また他派の寺院にも広まって、室町時代の仏画の大きな流れとなってゆく。弟子に[[霊彩]]、[[赤脚子]]など。