「坂本直寛」の版間の差分

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== 人物 ==
[[1853年]]に[[土佐国]][[安芸郡 (高知県)|安芸郡]]安田村に高松順蔵、千鶴夫妻の次男として誕生。幼名は「習吉」。17歳の時に母の兄の[[坂本権平]]の養嗣子となり「南海男」を名乗った。
 
=== 自由民権運動 ===
明治になると[[立志学舎]]において西洋の学問を修めた後、自由民権運動に参加し、高知県では著述活動に励む一方で東京で「[[三大事件建白運動]]」に参加。[[保安条例]]違反で一時投獄された。[[1887年]]に「南海男」から「直寛」に改名した。
 
=== キリスト教者、北海道開拓民 ===
[[1885年]]の高知[[日本基督教会|基督教会]]設立に伴い、[[武市安哉]]、[[片岡健吉]]、[[西森拙三]]らと高知教会で洗礼をうけキリスト教徒となった。[[1897年]]に[[北海道]][[北見市|北見]]の訓子府原野に一族を挙げて移住。北光社農場を建設に参加した。当時、同じ土佐出身のキリスト教者の[[武市安哉]]が「聖園農場」を北海道[[浦臼町|浦臼]]で営んでいたが武市の急死を受けて経営を継承、[[1898年]]に4人の子どもとともに浦臼に転居した。[[1902年]]には、「聖園農場」の経営を兄の直の妻、留とその子直衛に任せ、浦臼から[[旭川市|旭川]]に転出し、キリスト教聖職者として、北見教会の設立、十勝監獄の囚人や旭川師団の軍人に対する伝道に尽力した。札幌北一条教会で没。