「岩崎美和」の版間の差分

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寂華 (会話 | 投稿記録)
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== 生涯 ==
医者[[小野慶蔵]]の次女<ref>岩崎家傳記刊行会 編纂 『岩崎彌太郎傳(上)』p.93 [[東京大学出版会]] [[1967年]][[11月20日]]発行</ref>として、[[土佐国]]に生まれる。姉・ときは[[岡本寧浦]]に嫁いだ。[[文政]]10年([[1827年]])父が亡くなると、土佐藩士[[五藤正応]]に奉公するようになる。[[天保]]2年([[1831年]])弥次郎に嫁し、[[岩崎弥太郎|弥太郎]]・[[岩崎弥之助|弥之助]]ら23男2女をもうけた<ref>岩崎家傳記刊行会 編纂 『岩崎彌之助傳(上)』p.10 東京大学出版会 [[1971年]][[8月1日]]発行。但し次男は[[夭折]]しており、三男の弥之助が[[戸籍]]上は次男となっている。</ref>
 
[[安政]]2年([[1855年]])に、酒飲みで仕事をしない夫が庄屋の[[島田便右衛門]]との争いを原因に病床に伏し、このことを官を訴えた長男の弥太郎も投獄された。この事件で[[岩崎家]]はさらに困窮を極め、美和が家のやりくりを一手に担うことになったが、この赤貧洗うがごとき状況を美和は持ち前のがんばりで何とか乗り切った。
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後年、明治に入って岩崎家が隆盛するにあたっては、岩崎家に訓戒を残すなど家政の重鎮として重きをなした。
 
[[実業家]]の[[豊川良平]]は、美和の甥にあたる(豊川の父・小野篤治は美和の弟<ref>『岩崎彌太郎傳(下)』(岩崎家傳記刊行会 編纂、東京大学出版会、1967年11月20日発行)のp.623によると篤治は美和の兄となっているが、同じく岩崎家傳記刊行会が編纂した『岩崎彌太郎傳(上)』(東京大学出版会、1967年11月20日発行)のp.103によると篤治は[[慶応]]元年([[1865年]])に48歳で病死しており、そこから生年を逆算すると没時の年齢が数え年・満年齢のいずれであっても篤治は美和の弟になる。</ref>である)。また、[[近藤廉平]]の妻である従子は、豊川良平の妹で美和の姪にあたる。
 
== 余話 ==
美和が明治7年(1874年)に土佐を離れる際に、近所の知人にあげた貯金壺(へそくり壺)と中に入っていた小銭が2010年2月に知人の子孫の家から見つかった。この壺は、美和の家政の堅実さを示すものとして、NHKの大河ドラマ『龍馬伝』にも出てくる。高知県の安芸市立歴史民俗資料館で展示中<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100211-OYT1T00724.htm?from=main4 龍馬伝にも登場、弥太郎・母「へそくりつぼ」発見]</ref>
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20100211-OYT1T00724.htm?from=main4
 
== 参考文献 ==
岩崎弥太郎再考:小林/関東学院大学著
http://opac.kanto-gakuin.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.utf-8/NI10000594/Body/link/kobayashi.pdf
 
== 演じた俳優 ==
*[[倍賞美津子]] - 『[[龍馬伝]]』([[2010年]]、[[NHK大河ドラマ]])
 
== 参考文献 ==
*[http://opac.kanto-gakuin.ac.jp/cgi-bin/retrieve/sr_bookview.cgi/U_CHARSET.utf-8/NI10000594/Body/link/kobayashi.pdf 岩崎弥太郎再考:小林/関東学院大学著]
 
== 脚注 ==
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