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== スエビ王国 ==
[[ファイル:Reino de Galicia Suevos.png|left|thumb|200px|ガラエキアのスエビ王国。ガリシア、ルシタニアにまたがる]]
ガラエキアの[[スエビ王国]]は410年から584年まで続いた。この王国は当時最も堅剛な政権を維持しているように見られていた。最初、ガラエキアは2つの王国に分割された。[[ヴァンダル族]]の支族が治めるハスディンギ王国、そしてスエビ王国である。のち、ヴァンダル王の[[グンデリック]]と、スエビ王[[ヘルメリック]]の間で戦が起こり、ハスディンギ王国はスエビに滅ぼされた。スエビ族はローマ人から支援を受け、ヴァンダル族は[[:en:Hispania Baetica|バエティカ]]にある支族シリンギ王国へ逃げた。この時代に書かれた文献であるイダティウス年代記を翻訳したホセ・アントニオ・ロペス・シルバのような歴史家らは、ガリシア文化の本質的な性質は、スエビ文化と、イベロ=ロ文化が混ぜ合わされて成立したということを見いだした。[http://www.culturagalega.org/temadia_arquivo.php?id=4740].
 
ゲルマン人侵入者のうち、ガラエキアにいたスエビ族侵入者の人数は概算で30,000人を下回った(ヴァンダル族、[[アラン族]]の兵士は50,000人から80,000人が定着せずに、北アフリカへ出て行った)。現在の北部ポルトガルとガリシアの主な定住地は、[[ブラガ]](Bracara(ラテン語名:ブラカラ・アウグスタ、Bracara Augusta)、[[ポルト]]、[[ルーゴ]](ルクス・アウグスタ、''Lucus Augusta'')、そして[[アストルガ]](Asturica(アストゥリカ・アウグスタ、Asturica Augusta)であった。リマ川の渓谷は、ゲルマン人移住者の最大の集約地であったと考えられた。現在のブラガである、当時のブラカラ・アウグスタは、スエビの首都となった。ブラカラ・アウグスタは以前ガラエキアの首都であった。スエビ人が治めたガラエキアは、現在のガリシアより大きかった。[[ドウロ川]]へ向け南に伸び、東は[[アビラ]]へ伸びた。最盛期には、[[メリダ]]や[[セビーリャ]]といった都市まで伸びた。
 
438年、スエビのガリシア王[[ヘルメリック]]はヒスパニア系ローマ人出身のガライコスと和平を批准し、戦いをあきらめ、実子[[レキラ]]に王位を譲り退位した。448年、レキラが死に、残された国土は彼の子[[レキアル]]によって拡大した。西ゴートから[[アリウス派]]の宣教師が布教して回っていたが、彼は[[カトリック]]信仰を異教徒のスエビ族とガライコ人に課し、自身は447年にカトリックに改宗した。456年、レキアルが死に、スエビ族の栄光が揺らぎ始めた。王位を請求する多様な候補者が現れ、2派に分かれた。[[ミーニョ川|ミニウス川]]を印にして分けられた境界が知られた。これはおそらく2つの部族[[:en:Quandi|カンディ族]]と[[:en:Marcomanni|マルコマンニ族]]の重要さのためだった。彼らはイベリア半島のスエビ族国家を構成するゲルマン人だった。スエビ族は他のゲルマン支族[[:en:Buri (Germanic tribe)|ブリ]]と共に、[[テラス・デ・ボウロ]](ブリ族の土地の意味。現在ポルトガル)として知られる土地へ移住した。
 
== 西ゴート王国の従属王国 ==
スエビ王国(''regnum Suevorum'')が、西ゴート王[[エギカ]]([[:en:Ergica]])によって、彼の子で共同統治者の[[ウィティザ]]([[:en:Wittiza]])の従属王国として再度建国された。『アルフォンソ3世年代記』は正確さは疑わしいが欠くことはできない書物で、この出来事を記録した唯一にして第一の文献である。常にナンセンスだとして葬り去られてきたのに、後期西ゴート時代を研究する学者から支持を受けている。
 
701年、ギリシャからスペインへ西進した[[ペスト]]の発生は、西ゴートの首都[[トレド]]を打ちのめし、エギカやウィティザを含む王族らが首都を逃れなければならないほど過酷なものだった。これは、ウィティザを、スエビ族の王国を治めようと[[:en:Tui, Galicia|トゥイ]](彼が首都を置いていたと記録されている)へ送るための口実を与えたものだと推測されてきた<ref>Roger Collins (2004), ''Visigothic Spain, 409–711''. (Oxford: Blackwell Publishing.), 110. <small>ISBN 0 631 18185 7.</small></ref>。ウィティザが[[ユダヤ人]]の圧制を救ったと記録された時期は、可能性として13世紀の年代史作家トゥイのルカスが挙げていた-ウィティザの父エギカ時代以降のトレドで、ウィティザの治世時代ついての起きたとする事実としては知られていない—実際、ルカスの地元であるトゥイでのウィティザの治世については、口頭による伝承がウィティザのガリシア統治の出来事を保存し今に伝え続けてきたのだと推測されている<ref>Bernard S. Bachrach (1973), [http://links.jstor.org/sici?sici=0002-8762%28197302%2978%3A1%3C11%3AAROVJP%3E2.0.CO%3B2-D "A Reassessment of Visigothic Jewish Policy, 589-711."] ''The American Historical Review'', '''78''':1 (Feb.), pp 31–32. Lucas' account has a large number of both detractors (Graetz, Katz, and Dahn) and supporters (Scherer, Ziegler, and Altamira) and even if true it is possible that Lucas' story is based on the minutes of XVIII Toledo, which still survived in his time.</ref>。
 
== アストゥリアスの後継国家 ==
 
== 近代のガリシア王国 ==
ガリシア王国は、1528年に初めて開かれた[[フンタ]]([[:gl:Xunta]]、行政を担当する自治政府)によってスペイン中央政権に対する単なる象徴となった。フンタは、[[サンティアゴ・デ・コンポステーラ]]、[[ルーゴ]]、[[ベタンソス]]、[[ア・コルーニャ]]、モンドニェード、トゥイといった諸都市の代表で構成された。フンタは実際の権力を持たなかった。スペインの中央集権制が弱まった[[半島戦争]]時代にのみ、一部の自治権を獲得している。対フランス独立戦争([[半島戦争]])の際には、フンタはガリシアが独立国であることを宣言した(1808年-1813年)。1813年、国王[[フェルナンド7世 (スペイン王)|フェルナンド7世]]はすぐにガリシアを取り戻した。
ガリシア王国は公式に1833年まで存在した。これは、時の[[摂政]]で、女王[[イサベル2世 (スペイン女王)|イサベル2世]]の生母である[[マリア・クリスティナ・デ・ボルボーン|マリア・クリスティナ]]の元での地方分割が行われた時である。ガリシアは1846年の反乱で武装し、その地域の再統合が叶ったが、二度と王国の状態に戻ることはなかった。
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