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'''北秀愛'''(きた ひでちか、生年不詳 - [[慶長]]3年([[1598年]]))は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[南部氏]]の家臣。[[北信愛]]の子。兄に[[北定愛]]、弟に[[北直継]][[北愛邦|愛邦]][[北愛久|愛久]]がいる。妻は[[南部晴政]]の五女。直愛とも称した。
 
2000石を領した。[[天正]]18年([[1590年]])の[[九戸合戦]]では、[[一戸城]]が九戸方についたことをいち早く南部方へ報告し、一戸で篭城して援軍を待った。この最中に流れ弾により負傷し、戦死したとの虚偽の流言を行ったという(『岩手県史』)。ただし『一戸町誌 下』では生存したか不詳と疑問を呈している。九戸合戦、篭城の功で[[花巻城]]代に就任、加増され8000石を領する。(この際、名を北直愛と改名している。)慶長3年(1598年)に鉄砲傷が悪化し死亡する(『岩手県史』)。ただし、『岩手県史 第3巻』の北氏系図では、寛永20年死去とある(岩手県史の本文は慶長3年没とみなす)。