「津々見忠季」の版間の差分

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'''津々見 忠季'''(つつみ ただすえ、生年未詳 - [[承久]]3年[[6月14日 (旧暦)|6月14日]]([[1221年]][[7月275日]]))は、[[鎌倉時代]]初期の[[御家人]]。[[惟宗広言]]の子。[[若狭国]][[守護職]]。[[惟宗氏]]の流れを汲む[[島津氏]]の一門で、[[薩摩国]]守護職[[島津忠久]]の弟(あるいは兄)と伝える。室は若狭尼<ref>[[源頼政]]女と記した史料が存在する(「大音正和家文書」)。</ref>など。子に[[若狭忠清|忠清]]がある。通称は次郎、左兵衛尉、若狭兵衛入道。後に'''若狭忠季'''と名乗った。[[若狭島津氏]]の祖。
 
[[遠敷郡]]津々見保の[[地頭職]]に補任されたことから、最初、津々見忠季と名乗る。[[建久]]7年([[1196年]])9月1日、[[源頼朝]]は若狭国内の最有力[[在庁官人]]であった[[稲庭時定]]より没収した遠敷・[[三方郡|三方]]両郡の所領25か所を忠季に与えた。忠季はこの時点で若狭国守護と補されたと考えられ(「守護職次第」)、これ以後、忠季が「若狭」という国名を苗字としたのは若狭国の中心に立つこととなった自らの立場に対する自覚によるものであろうと考えられている。