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臨邑 (会話 | 投稿記録)
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劉洪は魯王の宗室に生まれ、信篤くして学問を好み、[[儒学]]の基本教養である[[六芸]]や様々な書物について見識があって、天文学や数学知識によって物事の深淵を探求したと言われる。</br>
[[延熹]]年間、校尉でありながら太史に応答していた所、[[桓帝 (漢)|桓帝]]に徴召されて郎中となり、しばらくして[[常山郡|常山国]]の長史に遷ったが、父の喪に服すためにいったん官を辞す。
後に[[郷挙里選|上計掾]]に選出され、郎中を拝し、謁者、穀城門候、会稽東部都尉などを歴任。中央に徴されるが、洛陽に着かないうちに領山陽太守に任ぜられ、そのまま官を在職中にた。
また、時期は不明だが、『[[博物記]]』によると、彼が曲城侯の相となっていたとき、その政治や礼教は清らかで均しく、官僚や民は彼を畏敬しつつも愛したとされる。</br>
彼は七曜術と乾象暦を作ったが、このうち乾象暦は[[中国暦|中国の暦法]]の一つである[[定朔]]法に繋がる重要な発明となった。