「ヴィットーリオ・アルフィエーリ」の版間の差分

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北イタリア・[[ピエモンテ州]]の小都市[[アスティ]]の生まれ。語の綴りさえも知らずに自尊心の激しさだけで書かれた処女作の悲劇《クレオパトラCleopatra、[[1774年]]》で有名になり、[[1776年]]に[[フィレンツェ]]に行きアルバーニ伯爵夫人と恋愛をする。彼女とともにアルサスから[[パリ]]に赴く。[[フランス革命]]に遭遇して王政に反抗する民衆の力に感激し、頌詩《[[バスティーユ牢獄|バスティーユ]]抜きのフランス》を書くが、[[恐怖政治]]になるや《フランス嫌い》を書いて革命政府の行き過ぎを弾劾し、追求を避けて[[1792年]]にフィレンツェに戻る。晩年をギリシア語研究と、ギリシア・ラテンの古典の翻訳に過ごした。[[ダンテ・アリギエーリ|ダンテ]]、[[ペトラルカ]]、[[アリオスト]]、[[トルクァート・タッソ|タッソー]]の4人を模範とし、さらに[[ニッコロ・マキャヴェッリ|マキャベッリ]]、[[ウィリアム・シェイクスピア|シェイクスピア]]、[[ミゲル・デ・セルバンテス|セルバンテス]]などを読み、史実にはあまりこだわらない。その悲劇は政治的色彩が強く、筋は単純、文体は雄健である。他に喜劇が6、アメリカ独立に関する頌詩5、ソネットなどの作品がある。
 
高貴な家柄のただ一人の男子として育ち、大きな財産を相続したため、生活に追われることは生涯なかったと自伝に記している。奔放不羈で独立を尊ぶ気象のために寄宿舎に入れられても規則的な勉学には身を入れられず、軍籍に身を置いても7年の勤務のうち5年間は[[アルプス山脈|アルプス]]の北へ旅行をして戻らず、以来取り憑かれたかのようにロシアからポルトガルまでほとんど全ヨーロッパを、しかも一カ所に長く留まることなく、巡り歩いている。愛読書は[[モンテーニュ]]の『[[エセー]]』と[[プルタルコス]]の『[[対比列伝|英雄伝]]』。気に入った国は[[イギリス]]で、ついで[[オランダ]]と[[デンマーク]]。嫌いな国は[[プロイセン王国|プロイセン]]と[[ロシア帝国|ロシア]]。どちらも専制君主のもとで西欧化を進めている国であることが興味深い。自身伯爵の称号を持つ貴族に属しながら共和主義の理想をもち、フランスの[[啓蒙思想]]に共鳴しても、[[ルイ15世 (フランス王)|ルイ15世]]下の[[ヴェルサイユ]]の宮廷には我慢がならないという。
 
フランスの作家[[スタンダール]]はアルフィエーリを早くから愛読し、イタリアの暗い情熱を典型的に示した天才として賛嘆し、アルフィエーリの「人間という植物が、どんなよそよりもイタリアで一段とたくましく育つ」という言葉を好んで引用した。それと同時に、アルフィエーリの政治への視野は狭く、その『僭主論』(''Della Tiranide'', [[1777年]])にあらわれた政治観は、自分より上の身分に抑圧されることに我慢がならないピエモンテ貴族の[[ジャコバン主義]]だ、とも述べている。[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン卿]]のように不満を持った極右反動にも比較している(スタンダール『イタリア紀行 1817年』より)。