「オルミュッツ協定」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Libertas (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目:
'''オルミュッツ協定'''('''Olmützer Punktation''')は、[[チェコ]]の都市である[[オロモウツ]](当時は[[オーストリア帝国]]領)において、[[1850年]]に[[プロイセン王国|プロイセン]]、[[オーストリア]]、[[ロシア帝国|ロシア]]によって確認された協定。[[1848年革命]]によって大きく動揺した[[ドイツ連邦]]の枠組みを基本的に復活させたものであり、「[[小ドイツ主義]]」に基づく[[ドイツ統一]]を頓挫させる内容であった。「'''オルミュッツの屈辱'''」とも称される。
 
==概要==
7行目:
プロイセン王国は、ドイツ連邦に代わる新秩序を形成させようと、ドイツ連邦内の有力邦国に接近を図った。その結果、1849年に[[ハノーファー王国]]、[[ザクセン王国]]との間で三王同盟を構築することに成功した。このように、ドイツ北部の諸王国がプロイセンに同調する動きを見せたことはオーストリアの強い警戒を招くとともに、こうしたオーストリアの動きをドイツ南部の[[バイエルン王国]]、[[ヴュルテンベルク王国]]が支持する姿勢をみせた。すると、ハノーファー王国とザクセン王国の内部に動揺を引き起こし、両国はプロイセンから距離を置く姿勢をみせたために三王同盟が崩壊へと至った。こうして、ドイツ連邦内でのプロイセンの孤立が強まったのである。
 
一般的に、1848年にウィーン体制が崩壊したと表現されるが、[[ウィーン体制]]下における[[五大国]](英、仏、露、墺、普)による協調は、1848年以降も続いていた。とりわけ、[[神聖同盟]]の中心であったオーストリアとロシアの間の連携は強固なものであった。そのため、ロシア皇帝[[ニコライ1世]]は、オーストリアへの支持を明確に示したが、このことでプロイセンの孤立は連邦内だけでなく国際関係においても明らかになった。
 
===内容・その後の展開===
こうして、万策尽きたプロイセンは[[モラヴィア]]地方のオルミュッツ([[チェコ語]]・[[オロモウツ]])でオーストリア・ロシアと協定を結び、事実上、小ドイツ主義に基づくドイツ統一を断念することが確認された。そのため、ドイツ民族主義者からは「オルミュッツの屈辱」とも称される。
 
オルミュッツ協定(オルミュッツの屈辱)は、「小ドイツ主義」によるドイツ統一を狙うプロイセンにいくつかの教訓を残した。まず、少なくてもオーストリアを牽制しうるだけの国際情勢が現出しない限り、ドイツ統一は困難であるということである。また、そうした状況が生まれたとしても外交交渉のみで円満な解決が得られることはほぼ不可能であり、軍事的手段に訴えざるを得ないだろうということである。
 
このうち、前者(国際情勢)に関しては、1853年に勃発した[[クリミア戦争]]が重要な転換点となった。[[ナポレオン戦争]]以後、初めて五大国のうちの三国(英・仏VS露)が衝突したこの戦争において、オーストリアは両勢力に配慮して中立政策をとった。しかし、このことがオーストリアの支持を期待していたロシアの失望を招き、しかも英・仏側が[[セヴァストポリ]][[要塞]]を陥落させたのを見計らって、英・仏側に味方したために従来までの墺・露間における密月関係に終止符が打たれた。さらに英・仏にも甘い汁を吸おうとした参戦に嫌悪感を与え、オーストリアはヨーロッパでの外交戦略で孤立し、プロイセン外交にとって有利な要素となった。また、後者(軍事的解決)に関しては、1862年にプロイセン首相に就任する[[オットー・フォン・ビスマルク]]による「[[鉄血政策]]」によって、具体的方策が準備されることになるのである。
 
==関連項目==
*[[ドイツ統一]]
*[[大ドイツ主義]]
*[[小ドイツ主義]]
*[[中欧帝国]]
*「[[七千万帝国構想]]」(大オーストリア主義)
 
[[Category{{DEFAULTSORT:ドイツの歴史 (1806年-1870年)|おるみゅっゆつつきょうてい]]}}
[[Category:オーストリアドイツの歴史|おるみゅっつきょうてい (1806年-1870年)]]
[[Category:チェコオーストリアの歴史|おるみゆつつきょうてい]]
[[Category:チェコの歴史]]
[[Category:プロイセン王国]]
[[Category:オーストリアの条約]]
[[Category:ロシア帝国の条約]]
[[Category:1850年]]
 
[[cs:Olomoucká punktace]]